ライプニッツ「運動は何か相対的なものである」の粗訳。
Leibniz [2.1677] Motum esse quiddam respectivum, A VI-4, 1970f.
驚くべき事柄。運動は何か相対的なものである。どちらの物体が運動しているのか、区別できない。ゆえに、もし運動が変状ならば、その基体となるものは、何か単独の物体ではなくして、宇宙全体である。したがって、そのあらゆる結果もまた、関係的であることは必然的である。しかし、われわれが自らに対して想像するところの絶対運動は、われわれ自身あるいは他のものを不動の事物として考えるときには、われわれの魂の変状にすぎない。というのも、われわれは、これらの事物を不動な事物として考えたとき、全体をより容易に知解することができるからである。運動は、単独の物体の変状ではなくして、世界全体の変状である。このことから、あらゆる事物および世界全体の第一原因が唯一であること、そして、様々な天体の動因となる知的存在者が他様でないことは明らかである。
しかし、次のことが注意されるべきである。すなわち、運動がそれ自体において形相的にではなく、原因に関して考えられたならば、運動は、その衝突に関して変化が生じるところの、その物体に対して、割り当てられうる。もし、あるひとが、なぜこの火は燃えているのかと問うならば、それに火を灯すものが燃えていたのだと、わたしは答える。あるいは、次のように何かについて答えるとしよう。すなわち、なぜこの犬は吠えるのか、なぜならその父が吠えたからである、と。このとき、何も説明したことにはならないだろう。というのも、たとえもし、このような仕方で無限に答えるとしたら、なぜ犬たちが吠えるのか、あるいは、それらの犬が吠えた原因は何であるか、その理由によっては説明したことにならないからである。
より良い例は、凝集性によって与えられる。ある人たちはそれを、自身に拠って立つ石板によって説明する。しかし、代わりに、彼らは、どこに石版自体の凝集性が由来するのかを説明しなければならない。あるいは、何も完全には説明されていないことを認めねばならない。そして、確固たる他の仮定によってでなければ、確固たる理由を知解するのではないことを認めねばならない。したがって、確固さを絶対的に説明したことにはならない。そこから、確固たることが物体に属すのはそれ自体によってである、ということが帰結するが、これは不合理である。
そこから、運動は相対的な存在者であることとなり、真空がもたらされるのではないことが帰結する。というのも、ここから真空における運動が排除されるからである。なぜなら、それによって識別され得るものが何もないからである。しかし、実際ある全知なものによってでさえ、識別され得ないものは、何ものでもない。
Mira res: motum esse quiddam respectivum, nec distingui posse quodnam ex corporibus moveatur. Ideoque si affectio est, subjectum ejus erit non corpus ullum singulare, sed totus Mundus. Hinc etiam omnes effectus ejus respectivos esse necesse est. Motus autem absolutus quem nobis fingimus non nisi animi nostri affecto est, dum nos ipsi vel alias res velut immobiles spectamus, quando ipsis velut immobilibus spectatis cuncta facilius intelligere possumus. Ex eo quod motus non unius corporis sed totius Mundi affectio est, patet causam primam rerum omnium totiusque Mundi univam esse, nec alias esse intelligentias astrorum diversorum motrices.
Notandum tamen motum non in se formaliter, sed ratione causae considerando, posse attribui eius corpori a cuius contactu provenit mutatio. Si quarenti cur hic ignis urit, respondeam quia is ussit a quo accensus est, vel ita de quolibet, vel cur hic canis latrat, qui eius pater latravit, nihil explicuere etiamsi enim eam hoc modo in infinitum, non ideo explicuero cur canes latrent, seu quae sit eorum latratus causa.
Melius exemplum praebat consitentia. Quam aliqui per Tabulas sibi incumbentes explicant, sed rursus explicare debent unde ipsae tabulae sint consistentes: aut fateri se nihil perfecte explicuisse, nec rationem firmitatis intelligere, nisi supposita alia firmitate. Itaque firmitatem absolute non explicuere. Unde sequeretur firmitatem corpori competere per se, quod absurdum est.
Ex eo quod motus sit Ens respectivum, sequitur non dari vacuum, nam hinc tolliter motus in vacuo, quia nihil est quo dignosci possit. Quod autem dignosci non potest, ne ab omniscio quidem, id nihl est.