labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

精神による形象化―デカルト『思索私記』についての読書ノート―

デカルトを読んでいると興奮する。

Ut imaginatio utitur figuris ad corpora concipienda, ita intellectus utitur quibusdam corporibus sensibilibus ad spiritualia figuranda, ut vento, lumine: unde altius philosophantes mentem cognitione possumus in sublime tollere. AT X, 217, 12-22

あまり細かいことにこだわらずに試訳すると、次のような感じになるだろう。

想像力imaginatioが物体を理解するconcipioために図形を使うように、知性intellectusは精神的なものspiritualisを形作るfiguroために風や光のような、ある種の感覚的物体を用いる。このようにして、われわれはより高い仕方で哲学することで、精神を認識cognitioによって崇高なところへと高めることができる。

想像力が物体を理解するために図形を用いるのと類比的に、知性は精神的なものを形象化figuroするために風や光のようなある種の感覚的物体を用いる。

「知性」と「想像力」について、私が理解したいことの問題が、ここに凝縮されている。

これは青年期デカルトの著作『思索私記』の断片である。AT版では、1619-1621と推定されている。つまり、デカルトが数学の徒としてまだ駆け出しの時期である。そこで言われる「精神的なもの」とは、なんであろうか。また、「風や光のようなある種の感覚的物体を用いる」とはどういうことであろうか。

これと密接にかかわる『思索私記』の断片がある。

Sensibilia apta concipiendis Olympicis: ventus spiritum significat, motus cum tempore vitam, lumen cognitionem, calor amorem, activitas instantanea creationem. Omnes forma corporea agit per harmoniam. Plura humida quam sicca, et frigida quam calida, quia alioqui activa nimis cito victoriam reportassent, et mundus non diu durasset.AT X, 218, 8-14

感覚的なものsensibiliaは超越的なものOlympicaを理解するのに適している。風は霊spiritusを、時間を伴った運動は生命を、光は認識を、熱は愛を、瞬間的活動は創造を表すsignifico。あらゆる物体的形forma corporeaは調和に基づいてper harmoniamはたらく。乾よりも湿、熱よりも冷の方が多い。というのも、さもなければ、ある活動があまりにnimis早くcito勝利してしまい、世界が長いあいだdiu持続duroしなかったであろうから。

風ventusと精霊spiritusが結びつくのは、語源的にも知られている。古くはプラトンであるが、デカルトにおいては、呼吸を動物精気とかかわらせている。

デカルトは「感覚的なもの」として、「風・時間的運動・光・熱・瞬間的活動」を挙げている。そしてこれらがそれぞれ、「超越的なもの」である「霊・生命・認識・愛・創造」を、何らかの仕方で表示している、とする。

個々の対応がいかなるものであるかについての検討はここでは控えておく。哲学的に重要なのは、デカルトがなぜこのような主張をするのかであるからだ。それは次の洞察に示されている。

Cognitio hominis de rebus naturalibus, tantum per similitudinem eorum quae sub sensum cadunt: et | quidem eum verius philosophatum arbitramur, qui res quaesitas felicius assimilare poterit sensu cognitis. AT X, 218. 21-219. 2

自然的事物に関する人間の認識は、ただ感覚のもとに帰属するそれら事物の類似性のみによる。さらに、われわれは求められている事物を、感覚的認識により巧みに適合させることができた人を、より真実に哲学した人だとみなす。

ここでは自然的事物に関する人間的認識が、自然的事物そのものによってなされるのではなく、それらの類似物としてか感覚に提示された、感覚的事物によるということが言われている。この箇所は、Regulaeの規則12以降の知性的認識の補助としての、感覚や想像力の積極的使用を主張する転回と、似ているように思われる。

この箇所では、「自然的なもの」を理解するために「感覚的なもの」をうまく用いることが言われているわけであるが、「超越的なもの」についても、同様のことが当てはまる。というのも、最初に引用した断片にある、「想像力が物体を理解するために図形を使うように、知性は精神的なものを形作るために...ある種の感覚的物体を用いる」と述べていたことからも明らかなように、「超越的なもの」を理解するためにも、われわれ人間は「感覚的なもの」に訴えざるをえないからである。

デカルトが示した「精神による形象化」とは、すなわち、想像力が「自然的なもの」についての理解を「感覚的なもの」を通じて認識するのと類比的に、われわれの知性は、感覚を超える「超越的なもの」についての理解もまた、「感覚的なもの」を通じて認識するということである。

興味深いことに、デカルトはこの精神による形象化にかかわる物体的形が、「調和を通じてper harmoniam」動いている、と述べている。これは、自然的なもの、超越的なもの、そして感覚的なものとのあいだに、ある適合ないし調和があるとする見方であろう。残念ながらこの「思索私記」において、デカルトは、この調和を支配する法則についての考察を、詳しくは展開していない。しかし、「われわれは求められている事物を、感覚的認識により巧みに適合させることができた人を、より真実に哲学した人だとみなす」と述べていることが、デカルト本人にとっても真実な哲学に近いとすれば、デカルトが青年期に抱いていた哲学観は、デカルト以降のライプニッツの調和の哲学に、極めて接近していくように考えられるのである。