labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

バロック・スコラ哲学研究会に参加してみた

今日は、山内先生が主催するバロック・スコラ哲学研究会(於 慶應大学)に出てみました。

ライプニッツの数学と形而上学の関係、そして、近世期の想像力や抽象の理論を考える上で、その背景となる哲学を知ることは勉強になるだろうし、何よりラテン語の勉強になると考えて、富山からの視察を決意。朝6時半に起きて、特急を乗り継いで東京は三田にあるわが母校に向かった。富山は雪ではなかったが、越後湯沢は大雪だった。

研究会のテーマは、「ガブリエル・ビールの唯名論的倫理学とルターの批判」(山内先生が担当)。自由意志論をめぐるルターとガブリエル・ビールの関係について。ルターについてはほぼ何も知らない。ハノーファーにルターの銅像があったのは覚えている。ガブリエル・ビールについてはまったく何も知らない。BeerじゃなくてBielだと今日知ったぐらい。専門外すぎて良くはわからなかったが、ルターの立場がかなりラディカルなものに思えたので、なかなか楽しく話を聴けた。

"facere quod in se est"「自分の内にあるものをなすこと」

これが一つのキーである。

ビールが「自分の内にあるものをなすこと」の観点から、恩寵と自由意志の協力関係(セミ・ペラギウス主義的)を認めるのにたいし、ルターは「自分の内にあるものをなすこと」そのものが不可能であるとして、その出発的を壊してしまう、というロジックを用いる。

オッカムからビールにかけての系譜で、「自分の内にあるものをなす」とは、「自分にできるかぎりのことをする」のように読み替えられ、それが功績を積むようがんばればそれだけ報われるというような仕方で、救済の論理となったようだ。功徳をつんだ聖職者の功績を、報賞として教会が分配するようなシステムが出来上がっていったのだろう。

ルターはこうした契約神学、ペラギウス主義に諸悪の根源を見る。教会に功績の分配権があるという考え方を打破したいが、その基礎となっているのは、「自分の内にあるものをなすこと」、すなわち自分にできる最善を尽くすこと、そうすれば、功績がたまる、というような考えである。そこで、「自分の内にあるものをなすこと」が、実は罪に罪を重ねることでしかなく、己のうちにあるものは肉欲だけである、という考えを展開する。

今日はそのあたりはあまり触れなかったが、個人的には、ルターがアリストテレスについてけちょんけちょんに書いているあたりが気になった。
参加者には若くて優秀な学生も多く、こちらが勉強させてもらうことになりそうである。