labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§16

1. 原文

Nous expérimentons nous mêmes une multitude dans la substance simple, lorsque nous trouvons que la moindre pensée dont nous nous apercevons, enveloppe une variété dans l’objet. Ainsi tous ceux qui reconnoissent que l’Ame est une substance simple doivent reconnoitre cette multitude dans la Monade ; et Monsieur Bayle ne devoit point y trouver de la difficulté, comme il a fait dans son Dictionaire article Rorarius.

われわれが意識的に知覚するもっとも小さい思想でも、その対象のうちにある多様性を含んでいることを見い出すとき、われわれ自身も単純実体の内に多を表現している。魂が単純実体であることを知っているものは、モナドの内にこの多があることも知っているのでなければならない。ベール氏は、彼が自分の辞典のロラリウスの項目で書いたような困難をそこに見いだすべきではなかったのだ。

2. 備考

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ライプニッツにおいて、意識と精神すなわち理性的魂は、パラレルに考えられている。したがって、意識的表象の多様性は、われわれの精神ないし理性的魂のうちに多が表現されていることを意味する。ところで魂とは単純実体であり、単純実体とはモナドのことであるから、さっきのことから純粋に論理的な帰結として、モナドの内に多が表現されていることになる。

3. 解釈

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4. 比較参照

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5. レッシャーのコメンタリー

ライプニッツによれば、一における多は、われわれの精神が自己意識的な実体であるので、われわれ自身が経験するものである。(思考対象の)内容がもつ多様性のあいだで思考の一性がはたらくのは、意識の本性に存する。もっとも単純な思考ですらつねに複雑であり、つねに関係的である。こうした関係は、共通の不可変なものの範囲を超えて無際限に拡張される。単一の統一的実体における多様性の統合は、経験的にもなじみのあるものである。

ライプニッツの哲学において、人格は、実体のパラダイムである。実際、モナドの領域において、あry認知的な把握を得られるのは、このレベルにおいてのみである。たのすべての文脈では、「個体的」モナドは、われわれの経験と知識の領域のまったくの外部に存する。

・ピエール・ベール(1647-1706)は、最初セダン、それからロッテルダムの哲学教授。懐疑論的伝統の見解を拡張・再適用しようとした、重要かつ影響力のある哲学者である。その主著『歴史批評辞典』(ロッテルダム、1695, 1697)は多大な影響を持ち、古典古代の懐疑論者を彷彿とさせるもので、後のヴォルテール啓蒙主義の輪郭をも示している。

・ヒエロニムス・ロラリウス(1465-1556;その著作Quod animalia bruta saepe ratione utantur merius homineにおいて、題名にあるように、動物は人間よりも認知能力をより良く活用していると主張した神学者)の項で、ベールは、ライプニッツの哲学とりわけ「予定調和説」("Systeme nouveau" in Journal des Savants, 1695)の批判的議論を展開している。ライプニッツはベールの結論を『弁神論』で繰り返し考慮しているし、『モナドジー』でもベールを気にしている。(ベール『歴史批評辞典』には野沢協氏による邦訳がある)