labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツの“Calculemus”の典拠について

 ライプニッツの“Calculemus”すなわち「計算しよう!」という言明は、しばしば、現代のAIの先駆的思想として引き合いに出される。それは、ライプニッツの普遍学、とりわけ普遍的記号法の特徴的な思想で、論じたい問いや議題について自動的に推理・計算し、その判定結果について出力してくれる、理想的な記号的計算体系を指している。

“Calculemus”という言明自体、わりといろんなところでライプニッツが言っていた気がするし、自分も何度か自身の論稿で言及したことがある*1ので、どこかで邦訳されているはずだと思っていた。しかし、探してみた限りでは、意外に著作集にも、既存の翻訳にも見当たらない。しょうがないので、自ら該当箇所を見つけて、翻訳を付すことにした。(ちょこっと調べて済ますつもりが、思ってたよりも時間がかかったので、せっかくなので、久しぶりにブログにまとめることにした。)

“calculemus”の典拠としてもっとも引用されることが多いのは、ラッセル(Russell[1900], p. 170)やクチュラ(Couturat[1901], p. 98)らが引いているGP VII, 200に出てくるものである。私もそれで、よく知った気になっていたのかもしれない。アカデミー版では以下の箇所である。

 

[1] De Arte Characteristica ad Perficiendas Scientias Ratione Nitentes [1688夏(?)] (A VI 4, p. 913) [「理性に依拠する諸学を完成させるための記号法について」]

Quo facto quando orientur controversiae, non magis disputatione opus erit inter duos philosophos, quam inter duos Computistas. Sufficiet enim calamos in manus sumere sedereque ad abacos, et sibi mutuo (: accito si placet amico :) dicere: calculemus.

そのこと〔=あらゆる誤謬推理が単なる計算の誤りにほかならないことが確立されること〕がなされた暁には、論争が生じたとしても、二人の哲学者のあいだで議論を要することは、二人の計算家のあいだにおける以上には、もはやないであろう。というのも、ペンを手に取り、計算盤に向かって腰を下ろし、そして互いに(もしその方がよければ友人を呼び寄せたうえで)「計算しよう(calculemus)」と言い合えば、それで十分だからである。

 少し文脈を補おう。ライプニッツは、論争を容易に決着させるためには、意味が一義的に確定した記号によって、算術の単純な計算をするのと同じように、計算できるようにするべきだと考える。そうすれば、誤謬推理は単なる計算ミスであることが明らかとなって、詭弁は(ライプニッツが理想としている真な思考体系を反映した)哲学的文法に違反したものと判定できるようになる。そこで、上の引用文に続き、そのような記号による推理計算システムが確立されれば、哲学的な議論は計算をすることと同義になろう、と言うのである。

 “calculemus”という文言が直接出現するわけではないが、その思想内容が述べられている箇所は多数あり、それらを調べていくと、「一般学」(scientia generalis)の構想について述べた草稿群(A VI 4所収)、とりわけ1680年〜1685年頃に作成されたものに頻繁に登場することがわかった。その多くが、最近Stricklandによって英訳されたので、今ではよりアクセスしやすくなっていよう*2。

 

 とはいえ、それらを列挙していき検討するとなると、これは本格的な研究になってしまい、時間も相当かかりそうである。“calculemus” が直接出現するわけではないが、その思想内容に当たるものは、1679年頃の普遍的計算や普遍的記号法の計画をめぐる草稿にすでに見られるし、「思考のアルファベット」や1666年の結合法に萌芽的起源がある。理性的な思考を計算に還元するというアイデアそのものはホッブズに先駆があり、普遍的記号法にはルルスの結合術やカバラ、普遍数学の伝統や近世の代数学など複数のルーツがある。ライプニッツがどのようにして記号的計算による論争や議論の一般的な判定術の思想に至り、また展開したのかをつぶさに探究するのは、それなりに大仕事になりそうである。そこで、以下では “calculemus” が直接出現するものにまず限って提示することにする。

 さらに調べていくと、“calculemus” という用語は、1680年頃から着手された「一般学の基礎と範例」と題する草稿群のうち、とりわけ1682年頃の作品に出現が多いことがわかった。以下では、三つの作品でその典拠を確認してみよう。

 

[2] Synopsis libri cui titulus erit: Initia et Specimina Scientiae novae Generalis pro Instauratione et Augmentis Scientiarum ad publicam felicitatem. [1682春-秋(?)] (A VI 4, p. 443; GP VII, 64f.)

[その題目が「公共の幸福に資する諸学の刷新と進展のための新しい一般学の基礎と範例」となるであろう本の概観]

Quo adhibito semper terminari possunt controversiae quantum ex datis eas determinari possibile est, manu tantum ad calamum admota, ut sufficiat duos disputantes omissis verborum concertationibus sibi invicem dicere: calculemus; ita enim perinde ac si duo Arithmetici disputarent de quodam calculi errore, ipsa praescripta methodus etiam ignorantibus vel invitis exitum dabit. Ostenditur enim modus disputandi in forma, conveniens tractationi rerum, a taedio Scholasticorum syllogismorum vacuus, et supra distinctiones illas positus, quibus in scholis alter alterum eludit.

それ〔この方法〕が用いられるなら、論争は、与件(data)からそれを決定することが可能であるかぎり、つねに決着させることができる。しかも、ただ手をペンに添えるだけで、である。すなわち、二人の論争者が、言葉の言い争いをやめて、互いにこう言い合えば、それで足りるようになる。すなわち、「計算しよう(calculemus)」と。というのも、そうすれば、あたかも二人の算術家がある計算違いをめぐって論争しているのとちょうど同じように、あらかじめ定められた方法そのものが、たとえ〔当人たちが〕無知であろうと、あるいは不本意であろうと、決着を与えてくれるからである。かくして、事柄の取り扱いにかなった、形式に即した論争の仕方(modus disputandi in forma)が示される。それはスコラ学者の三段論法のうんざりするような煩瑣さを免れており、しかも、スコラ学派(schola)において一方が他方をはぐらかすのに用いる、あの〔語義上の〕区別立てを超えたところに置かれているのである。

 ライプニッツは自身の普遍学を体系化した単著を生前何も出版しておらず、もちろんこの本の企画も他の計画と同様に未完に終わるのだが、この断片も重要な思想が込められている。

 ライプニッツによれば、このSynopsisは、企画している「一般学」に関する本の序文のあとにくる、構成の予告として位置付けられている。面白いことに、ライプニッツは自身の原理がいかにデカルト派と異なるかを示すために、デカルトの『省察』「反論と答弁」を抜粋し、それに対する自身の再応答を提示する計画であるとしている。そうすることで、「かの傑出した人々がデカルトに求めながら空しく得られなかったものが、いかにして私によって補われるのかを、示すことにしよう」と言う(予告にとどまり、実現されていないのが残念)。

 さらに、人間の判断についての通常の分析、すなわち世人の意見が一般に依拠している、弁証術的な諸原理も付すとしている。もっとも、これについては、ライプニッツはあまり重視しておらず、次のように述べる。「だが、真理の分析(Analysis veritatis)、すなわち我々の判断の是正にこそ、発見術(ars inveniendi)の奥義のすべてが懸かっており、それによって人間の知識は際限なく拡張されうるのであるから、それゆえ、我々が究極の分析(ultima analysis)にまで進み行くことが有益なのである」。

 これに続いて、「永遠真理の原論(Elementa veritatis aeternae)」が扱われるとする。「そこでは、あらゆる事柄において、まったく厳密で、数学のそれに比肩する──いや、それどころか数学を超える──論証を与える方法が説き明かされる。数学を超える、というのも、数学者たちが多くのことを〔証明せずに〕前提してしまうのに対し、ここではそれらが証明されうるからである。かくして、ここにある新奇で驚嘆すべき計算法(calculus novus et mirificus)が提示される。それは我々のあらゆる推論のうちに場を占め、しかも算術や代数に劣らぬ精確さで進行するものである」。

 「永遠真理の原論」というのは、──次の引用[3]にも登場するように──幾何学におけるユークリッド『原論』に相当する、永遠真理一般すなわち必然的真理の領域に関する『原論』の構想である。ライプニッツにおいては、理性の真理が支配する論理学や数学が依拠する諸原理だけでなく、形而上学の諸原理もこの「一般学の基礎」で扱われる「永遠真理の原論」に含まれよう。そして、諸学はその「原論」に依拠する「範例」として扱われよう。

 注目すべきことに、ライプニッツはこの普遍的計算法が、数学的前提をも証明するものである点で、数学的厳密性をも超えるものであるとしている。

 こうして、上の引用文が主張される。

 

[3] Guilielmi Pacidii initia et specimina SCIENTIAE GENERALIS [1682春(?)] (A VI, 4, p. 492f.) [「グィリェルムス・パキディウスの一般学の基礎と範例」]

次も、同じく「一般学の基礎と範例」に関する企画に関わる草稿からである。"グィリェルムス・パキディウス"というのは、お察しの通り、Gottfried Wilhelmをラテン語で言い換えたもので、とりわけ"パキディウス"は「パクス=平和」、「デウス=神」から成り、対話篇でもしばしば用いるライプニッツお気に入りのペンネームである。

Modum ergo tradere aggredior, quo semper homines ratiocinationes suas in omni argumento ad calculi formam exhibere controversiasque omnes finire possunt, ut non jam clamoribus rem agere necesse sit, sed alter alteri dicere possit: calculemus.

そこで私は、次のような方法を提示することに着手する。すなわち、それによって人々が、いかなる論題に関しても、つねに自らの推論を計算の形式へともたらして示し、いっさいの論争に決着をつけることのできる、そのような方法をである。それは、もはや声高な言い争いによって事を運ぶ必要はなく、一方が他方にこう言えば足りるようにするためである。すなわち、「計算しよう(calculemus)」と。

 少し前後の文脈を補うと、ライプニッツは予定している本書で、算術家の計算や幾何学者の図形に比肩しうる、絶対的真理あるいは(与件が不十分な場合は)最大の蓋然性の度合いをもつ結論をもたらしてくれる、そういう論証がいかにして可能になるのかを示すとする。それは、「永遠真理の原論(Elementa Veritates aeternae)」を示すことによってであるとする。すなわち、ユークリッドによる幾何学の『原論』があるように、永遠真理一般にも『原論』を与えることをライプニッツは宣言する。ユークリッドの論証にも──後世の受容史で、彼の注釈者たちによって何度も修正が検討されてきたように──不備があるわけだが、誤りの危険からは免れている。というのも、ユークリッドが論証で省略した事柄の大半は常識や無数の経験によって裏づけられているからである。「幾何学でさえこうであるとすれば、このような〔幾何学がもつ〕厳密さ(acribeia)からはるかに隔たっていながら、しかも欺かれやすく、結論を経験によって吟味することも難しいような論題に携わっている者たちについては、いったい何と言うべきであろうか」として、上の引用文に続く。

 また、引用に後続する文章では、計算の結果、両者の論拠について、その有利な点・不利な点が見積もられて、あたかも収支の帳簿のように総計が算出されて、どちらの議論が勝利するのかが精密に判定されることが述べられている。

 そして、判定の務めが、正しく衡量された諸論拠の表を明晰に配列し、結論へと至らしめることにあるのに対して、発見の務めが、判定すべき問いを立てたり、論拠ないし与件そのものを掘り出すことにあるとして、判定術と発見術を区別している。

 

[4] Ad Constitutionem Scientiae Generalis [1682春?] (A VI 4, p. 450)[「一般学の構成に向けて」]

最後に紹介するのは、「一般学の構成に向けて」と題する草稿群のうち、「最初の試み(Erster Ansatz)」に現れるものである。

 ライプニッツはそこで、(一般学に関する)自身の構想を「大いなる術(ars Magna)」と呼び、その着想が少年の頃からあったとする。これは即座にルルスの同名の著作を連想させるが、ライプニッツは「その術たるや、私が読み聞きしえたかぎりでは、人々のあいだにその存在の予感すらあったとは思われないほどのものである」として、あくまで独自の着想であることをアピールしている。それは、公共の大義のためにあるものであって、説得に役立ち、特段の才能をもっていなくても、優れた意志を持つ人々が互いに協力すれば、わずかな時間で、大した費用もかけずに達成できるものであるとする。

こうして、一般学をどのように構成するのかについて、次のようにその計画を述べる。

Primum scilicet constituetur Canon, sive Ars quaedam judicandi, cujus ope omnes controversiae quae sive de scientiis humanis sive etiam de singularibus vitae negotiis, rebusque agendis oriri possunt, palpabili quodam modo ad calculi Mathematici instar tam accurate definiantur, quam ex datis utrinque rationibus possibile est. Ita scilicet, ut cum sufficientia sunt data ad veritatem infallibiliter determinandam, demonstratio habeatur veritatis; sin minus, habeatur saltem interim demonstratio maximae probabilitatis, quae argumentorum utrinque pugnantium commodorumque atque incommodorum aestimatione certo semper determinari ex datis potest. Nec jam clamoribus res agatur, sed dissentientium alter alteri, aut etiam quisque secum disputans sibi dicere possit: calculemus.

すなわち、まず一つの規準(Canon)、いわばある判定の術(Ars judicandi)が確立されることになる。その助けによって、人間の諸学問に関して生じうるものであれ、あるいはまた生活上の個別の事柄や実務に関して生じうるものであれ、いっさいの論争が、いわば手に触れうるような仕方で、数学的計算になぞらえて、両側から与えられた論拠(rationes)にもとづいて可能なかぎり正確に裁定される。すなわち次のような仕方で。──真理を誤りなく確定するのに十分な与件(data)があるときには、真理の論証が得られ、そうでない場合にも、少なくとも当座のあいだは、最大蓋然性の論証が得られる。この後者の論証は、両側で相争う論拠と、有利な点および不利な点とを衡量することによって、与件から、つねに確実に規定されうるのである。そしてもはや、事は怒号によって争われるのではなく、意見を異にする者どうしの一方が他方に、あるいはまた各人が自分自身と論じ合いながら自らに、こう言うことができるようになる。「計算しよう(calculemus)」と。

 引用続きの箇所で、この草稿でも、「永遠真理の原論(Elementa veritatis aeternae)」を確立することが主張され、その上で、ここで言われている規準(Canon)、すなわち判定の術の端緒(さわり)を提示すると述べている。

 ライプニッツは、あらゆる誤りが、「計算の誤り」か、「脱落の誤り」かであるとする。「計算の誤りは、計算の規則そのものによって、つねに検出し訂正することができる。しかし脱落、すなわち不十分な枚挙を正すことは、形式(forma)にではなく質料[内容](materia)にかかわる。すなわち、それは判定の術(ars judicandi)にではなく、発見の術(ars inveniendi)に属するのである」。“calculemus” は「判定の術」であり、計算すなわち形式的な正しさに関わる。したがって、“calculemus” は「計算の誤り」を正すものである。他方で、諸前提を枚挙によって網羅するなどして「脱落の誤り」を正すのは、「発見の術(ars inveniendi)」に委ねられており、[3]と同様、ここでも判定術と発見術が明確に区別されている。

 

まとめ

 さて、いちおう4つのテキストに典拠を確認・翻訳し、前後の文脈を踏まえた上で、内容についても多少とも検討した。スコラ的討論や論者間の怒号、言葉の争いなど、〈何に代わって〉「計算」するのかや、ペンや計算盤など〈何によって〉計算するのかなどについては異同があり、より綿密な比較検討をしなければならないところがあるが、ひとまず共通点や独自な特徴に注目したい。検討から分かったいくつかのことは、以下のことである。

 

  • ライプニッツの “calculemus” は、算術の計算をモデルに、論争を容易に決着させるための判定法が確立された場合に言われうるものである。[1][2][3][4]
  • “calculemus” という用語の直接的な出現は、少なくとも1682年頃の「一般学」に関する草稿群にすでに確認できる。[2][3][4]
  • その判定法は、「一般学の基礎」を形成する「規準(カノン)」[4]、ないし「永遠真理の原論」に基づいて判定する術である。[2][3][4]
  • その判定法によって、論争の勝敗や、論証の形式的な誤りが明らかにされる。[1][2][3][4]
  • この判定術は、形式的な正しさにかかわり、諸前提の枚挙を担う「発見術」とは、その射程が明確に区別される。[3][4]
  • それは、数学的前提をも証明する点で、算術や代数、あるいは『原論』の証明における数学的厳密性に同等なもの[2][3]、あるいは数学的厳密性をすら凌駕するもの[2]として想定されている。
  • それは、スコラの三段論法の煩雑さを免れており、またスコラの討論より精確なものである。[2]
  • この判定術は、確実な絶対的真理のみならず、蓋然性や実践的判断にも拡張して適用されうるものである。[3][4]
  • こうした判定術を含む「一般学」の目的は、公共の福祉のためである。[2][3][4]

 

 今回は、手始めということで、ごく簡便で拙速な検討にとどまった。「発見術」についてもライプニッツは多義的に使用しており、結合術を指す場合や、分析/総合に関して言われる場合もあり、それぞれの術語についてもより丁寧に検討をしなければならないところである。ライプニッツの一般学の構想の全体像や、ライプニッツがCalculemusの思想をどのように形成し、展開していったのかなどについては、また今後の課題としたい。

*1:「ポスト・デカルトの方法論」『世界哲学史5』ちくま新書、2020年、p. 214

*2:Leibniz Philosophical Papers, 1677-1686: universal language, characteristic, logic, encyclopedia, and general science, edited and translated by Lloyd Strickland, Oxford: Oxford University Press, 2026

クラヴィウス『エウクレイデス原論注解』における点の定義の説明

先日のパスカル・シンポでは,とりわけ三浦先生のパスカル「幾何学序論」にかんする発表に刺激を受けた.エウクレイデス『原論』およびその系譜の数学史の専門家の観点から,パスカルの「幾何学序論」の重要性をみごとに解析していた.発表原稿には,「幾何学序論」の翻訳もついていた.

パスカルの「幾何学序論」は,パスカルの遺稿の一つであるが,残されているのはライプニッツが筆写したもののみであって,ライプニッツ研究の観点からも,非常に重要な作品である.すでに以前からその存在を知っていたし,いずれ研究しようと思ってDescotes版のGéometries de Port-Royalなども入手していたが,なかなか手をつけられずにいて,すっかり失念していた.その意味でも,改めて課題を思い出す,良いきっかけとなった.

そこで,パスカル「幾何学序論」をはじめ,ロベルヴァルやアルノーなど,当時の幾何学の導入がどのようになされているか,改めて関心を持った次第である.三浦先生の翻訳と照らし合わせつつ,原文をちゃんと読んでみることにした.

「幾何学序論」では,パスカルはすでに「空間」の概念を幾何学に導入しており,物体したがって立体から面・線・点へと下降する,トップダウン的な定義が採用されていることが示唆されていた.当時すでにロベルヴァルをはじめ,下降的定義が採用されていたようだ.周知のように,エウクレイデスを始めとして,16−17世紀に出版された諸版が点からはじまるボトムアップ的な上昇的定義を通常採用しているので,これは興味深い事態と言える.

ただ,なぜそのような下降的定義が採用されたのか,その理由についてはもっと踏み込んだ検討が必要なように思われた.そこで,従来の研究課題を思い出し,重い腰を挙げて,16−17世紀にかけての数学について,とりわけ点の定義や連続体・空間の定義を中心に,再び調査することにした.

16世紀には,エウクレイデス『原論』の再発見がされ,その後17世紀まで,諸版の出版が相次ぐ.ラテン語に翻訳されたものとしては,とりわけウルビノのフェデリコ・コマンディーノやクリストフ・クラヴィウスのものが重要である.クラヴィウス版は翻訳というより独自の校訂と注解であり,立体論にかんする第XVI巻が付け加わっている.フランス語による翻訳も相次いで出版されるが,版を重ねて普及したDechales版の仏訳が重要である.

Claude François Millet Dechales, Les Elemens d'Euclide, expliquez d’une manière nouvelle & tres-facile, avec l'Usage de chaque Proposition pour toutes les parties des Mathematiques, Nouvelle edition : 1683

そこでのDechalesの点の定義の説明はなかなか興味深いので引いてみる(p. 2).

Le Point est ce qui ne contient aucune partie.

Cette definition se doit prendre dans ce sens. La quantité que nous concevons sans distinguer ses parties, on sans penser qu'elle en ait, est un point Mathematique, bien different de ceux de Zenon, qui estoient tout à fait indivisibles, puisqu’on peut douter avec raison, si ces derniers sont possibles, quoy qu'on ne doute pas des premiers, si on les conçoit comme il faut.

点とはいかなる部分も含まないものである.

この定義は次の意味でとらえなければならない.すなわち,その部分を区別することなしに,あるいはそうした部分を持っていると考えることなしに私たちが認識している量とは,数学的な点のことであり,まったく不可分な量であったゼノンのものとはまったく異なる.というのも,後者が可能かどうかは正当な理由によって疑うことができるからである.対して前者については,それらをそうあるべきものとして認識すれば,疑うことはない.

点の定義を,概念的に問題のある「不可分者」としてではなく,単純に,「数学的点」として捉えよ,ということのようだ.この時代は,やがて微積分が不可分者の幾何学に取って代わる時代にあり,移行期における不可分者に対する懐疑が示されていよう.

点を「いかなる部分も持たない」もの,したがって,「分割ができない」ものであると演繹するのが,通常の理解であろう.ただし,「単に部分をもたない」や「不可分である」というだけでは,数学的・幾何学的な点として十分でないことも,指摘されてきた.たとえば,ライプニッツは,モナドすなわち単純実体を定義して,「単純とは部分がないこと」であり(『モナドロジー』1714,§1),「部分がないところには,拡がり(延長)も,形も,可分性もない」(同,§3)と演繹している.したがって,「部分がない」というだけでは,形而上学的点であるモナドも含まれてしまうし,「瞬間」や一部の者たちが定義する「原子」だけでなく,さらにはパルメニデス的な連続的な一なる「存在」も,新プラトン主義的な「一者」や,キリスト教的な「神」なども,この条件を満たしてしまう.

点の定義だけでも,こうしたさまざまな問題を孕むので,エウクレイデスの『原論』は哲学や神学の観点からも注目され,多くの注釈がほどこされてきたのだと思われる.

1574年には,クラヴィウスによっても『エウクレイデス原論注解』が出版され,イエズス会派の学校でも教えられたり,哲学者たちにも広く読まれたようである.そこで,クラヴィウスによる点の定義の説明に注目してみよう.

引用は,

Christophorus Clavius, Commentaria in Euclidis Elementa Geometrica, Opera Mathematica, 1612

の第I巻による.

まず,定義1として,「点とは,いかなる部分も持たないものである」と紹介され,以下に注解が施されている.注解では,『原論』第一巻全体の説明がされ,それが「三角形の起源と性質を,それらの角度ならびに辺に関して,われわれに伝えてくれるものである」とされる.先立って注解をしたプロクロスなどにも言及があるが,点にかんして言及されるのは,中盤あたりからなので,前半は飛ばしてそこから粗訳を始めることにする.

Ante omnia vero Euclides more Mathematicorum rem propositam exorditur à principiis, initio facto à definitionibus, quarum prima punctum explicat, docens illud dici punctum in quantitate continua, quod nullas habet partes.

しかし,何よりもまず,エウクレイデスは数学者の流儀によって,提起された問題を,原理から取り掛かり,まず最初は定義から始め,その第一に点を説明し,いかなる部分も持たないものが,連続量における点と呼ばれることを教えている.

ここでは,原理から問題へ,したがって定義から始めると言う「数学者の流儀によって(more Mathematicorum)」エウクレイデス『原論』が書かれていることが説明される.そして,点が連続量において点であることが付記される.

Quæquidem definitio planius ac facilius percipietur, si prius intelligamus, quantitatem cōtinuam triplices habere partes, vnas secundum longitudinem, alteras secundum latitudinem, & secundum profunditatem altitudinemve alteras ;

なぜなら,連続量には三つの部分があり,一つは長さによるもの,もう一つは幅によるもの,そしてもう一つは深さまたは高さによるものであることを最初に理解すれば,この定義はより明白かつ容易に理解できるからである.

ここでは,「部分」というのが点の部分という意味においてではなく,したがって点が全体/部分関係を持ちえないものである,ということではなく,連続量が持ちうる三つの次元,すなわち長さ・幅・深さ(高さ)のことであると解釈されているのが興味深い.言い換えれば,「点はいかなる部分も持たない」とは,「点は次元を持たない」ということであり,点がゼロ次元の存在者だということになる.

quanquam non omnis quantitas omnes has partes habet, sed quædam vnicas tantum secundum longitudinem ; quædam duplices, ita vt illis adijciat partes etiam latitudinis ; quaedam denique, praeter duplices has partes, tertias quoque, altitudinis, siue profunditatis continet.

ただし,すべての量がこれらの部分をすべて持っているわけではなく,長さのみによる量もある.また,二つの部分をもつ量もある,つまり[長さに加えて]幅の部分もそれに追加される量がある.さらに、これらの二つの部分に加えて,高さまたは奥行きの 3 番目の部分も含まれている量がある.

Quantitas enim omnis continua aut longa solùm est, aut longa simul, & lata, aut longa, lata, atque profunda.

なぜなら,あらゆる連続量は,長さのみであるか,長さと同時に幅をもつか,長さ・幅そして深さをもつかだからである.

連続量が,長さのみをもつ一次元の対象(すなわち線),長さと幅をもつ二次元の対象(すなわち面),長さ・幅・深さをもつ三次元の対象(すなわち立体)のいずれかで尽くされることが述べられている.

Neque, aliam dimensionem habere potest res ulla quanta, ut recte demonstravit Ptolemeus in libello de Analemmate, opera Federici Commandini Vrbinatis nuper in pristinam dignitatem restituto, necnon, ut ait Simplicius, in libello de Dimensione, qui quidem, quod sciam, adhuc nondum est excusus.

また事物はある量について別の次元を持つことはできない,プトレマイオスがアナレンマに関する本で正しく証明したように,またウルビノのフェデリコ・コマンディーノの作品が最近以前の威厳を取り戻したように,そしてシンプリキオスが,次元に関する本で,断言したように,それは確かに,私が知る限り,これまでのところまだ作り出されていない.

上より,したがって,四次元以上の幾何学的対象はない,ということが説明されている.クラヴィウスの説明は,数学的な証明にはまったくなっていないが,プトレマイオスやコマンディーノ,シンプリキオスらの先行的研究に依存して,ないし彼らの権威を借りて説明している.

Itaque, quod in quantitate continua, sive magnitudine existit, intelligiturque sine omni parte, ita ut neque longum, neque latum, neque profundum esse cogitetur, (ut nimirum excludamus animam rationalem, Nunc vel Instans temporis, & unitatem, quæ etiam partes non habent) id appellatur ab Euclide, & à Geometris punctum.

したがって,連続的な量,あるいは大きさにおいて,すべての部分がないものと理解されて存在するものは,すなわち,長さも,幅も,深さもないものとして考えられたものは,(もちろん,同じく部分を持たない理性的な魂,時間の「今」または「瞬間」,および一[単位]をわれわれは除外するためにも)エウクレイデスおよび幾何学者たちから,点と呼ばれる.

点とは「連続量,あるいは大きさにおいて」部分を持たないものである,という説明を繰り返して強調し,他の部分を持たない「魂」や「今」ないし「瞬間」,「一」を排除している.幾何学は,連続量したがって大きさに関する学であり,エウクレイデスはあえて説明していないのかもしれないが,クラヴィウスは誤解を招かないように説明を尽くしているのだろう.

Huius exemplum in rebus materialibus reperiri nullum potest, nisi velis, extremitatem alicuius acus acutißima, similitudinem puncti exprimere; quod quidem omni ex parte verum non est, quoniam ea extremitas dividi potest, & secari infinite, punctum verò individuum prorsus debet existimari.

最も細い針の先端のように,何か点に類似するものを表現したい場合を除いて,物質的なものではこのような[点の]例は見つけられない.実際,このことはすべての部分に当てはまるわけではない.その[最も細い針の]先端は,無限に分割したり切断したりできるのであるから,真の点は完全に不可分であるとみなされねばならない.
物理的な点は見出せないことを指摘しているが,これは原子論も復興された近世ではとりわけ重要なところである.デカルトおよびデカルト派,そしてライプニッツであれば,最も細い針の先端とはいえ,それは物理的なものであるから,拡がり(延長)をもち,したがって無限分割可能性を免れない.クラヴィウスは,「真の点は完全に不可分であるとみなされねばならない」として,点を「不可分者」に位置付けている.クラヴィウスは,ライプニッツのように,部分を持たないことから,不可分性を論理的に演繹しているわけではない.しかし,不可分者の概念に訴えることは,Dechalesに言わせれば,ゼノンのパラドクスの問題を想起させ,懐疑的になるざるをえないところである.他方で,クラヴィウスは,「真の点」は不可分でなければならないとしており,不可分性は点概念の不可欠の要件としてある.

Denique in magnitudine id concipi debet esse punctum, quod in numero unitas, quodque in tempore instans. Sunt enim & hæc concipienda individua.

要するに,大きさにおいては点が考えられねばならず,数においては単位(一),また時間においては瞬間が考えられねばならない.なぜなら,これらは不可分者(individua)と考えられるべきものだからである.

数における単位としての「一」や,時間における「瞬間」と同様に,大きさにおいて出発点となる不可分者として,「点」が考えられねばならないとしている.先の説明と合わせると,原理から問題(命題・定理)へという数学者の流儀,したがって,単純なものから複雑なものへという総合の方法の一環として,連続量における不可分者として点が最初に措定されねばならない,という理解が,クラヴィウスにはあるように思われる.

 

 

 

 

 

第11回 国際ライプニッツ会議@ハノーファー参加報告

7月31日〜8月4日にかけて,第11回目を迎える国際ライプニッツ会議に参加した.コロナ禍で延期となり,7年ぶりの開催である.

7月29日土曜早朝出発.富山きときと空港から羽田へ.乗り継ぎ時間が短いのが心配だったが,羽田ではミュンヘン行きの飛行機に無事搭乗.しかしすでに20分遅れでの出発で,ミュンヘン〜ハノーファーへ行く飛行機で懸念していた接続トラブル.ミュンヘンに一泊せざるをえず,現地入りが1日遅れて,日曜夜にハノーファー入りした.ミュンヘン空港のサービスセンターで,長蛇の列を4時間待ったが解決せず,翌朝再び2時間ほど並んで,その日の午後の飛行機に換えてもらったが,その飛行機もまた天候不良か急遽キャンセルになった.ラチがあかないので,電車で行くことにした.ここでもサービスセンターで列に並ぶ.ミュンヘンからハノーファーまで電車で6時間,長い道のりだったが,それなりに車窓を楽しむことができた.

夜7時ごろにハノーファー入り.とりあえず無事に到着して,ようやく安心できた.ハノーファーでは富山よりも気温が10度以上低く,日中は23度,夜は13度くらいで,ウィンドブレーカーを着てちょうどよいくらいであった.3度目なので,多少の土地勘はあり,ホテルまでは歩いて15分程度,モバイルWiFiが便利だが,Google Mapを頼らずともそれほど迷わずに着くことができた.わりと新しくできたホテルなので清潔で,場所も公園前なのでとても静か.国際会議が開催されるハノーファー大学の校舎へのアクセスも徒歩10分以内と良い.どこでもそうだがWiFiのつながりが悪い以外は不満はなかった.毎日,丁寧にタオルとシーツを替えて,掃除もしてくれていた.

月曜日午前に行われた開会式では,その期間に亡くなられたライプニッツ研究者が追悼された.面識のある研究者もいたので,だいぶしんみりとした開始であった.初日は招待公演があり,とりわけクノープロッホの発表は,今回も圧巻だった.前回,私が聞いた発表は,フランス語で発表されラテン語原文を即興で訳すものだったが,今回は英語で発表されラテン語原文を即興で訳していた.なお,氏はドイツ人である.日本ライプニッツ協会の前会長の酒井先生も堪能なドイツ語で「24命題」についての精緻なご発表をされた.流暢なドイツ語で質疑応答もされていた.かくありたいものである.

会議では,個人発表とは別に,各国のライプニッツ協会のセッションが行われ,日本も2つのセッションを執り行った.フランスが最も多く,5つものセッションを開催したようである.北米アメリカ協会からのものはなかったようで,関係がうまくいっていないのか,心配になるが,9月に大会が予定されているので,そのせいもあるのかもしれない.ただ,毎回,北米からの参加者が限られているように思われる.

また,これは例年通りであるが,個人発表もテーマでくくられてセッションが行われ,専門や関心を同じくする参加者が集まりやすいように配慮されていた.私は,日本のセッションや,自身の研究と関連する数学と哲学の関係のセッションや,新しく出版された動力学のライプニッツの著作にかんするセッションに参加した.印象に残ったのは,初日のアルノー・ペルティエの発表で,私の研究関心にもかかわってくる内容だった.実際に対面で当人の発表を聴くことで,きちんと著作や論文を読みたいと思うので,良い機会だった.

私は,最終日の金曜日に行われる,Kraft(力)のセッションでの研究発表となった.最終日ということもあり,直前まで発表の準備に追われて,他の方の研究発表を十分に消化できなかったが,私個人の発表は,質疑も多く出て,充実した発表を行うことができた(発表スライドはこちら).

写真は現日本ライプニッツ協会会長・稲岡氏撮影.

昼食時や会議の合間に,各国のライプニッツ研究者と情報交換をする機会にも恵まれた.とりわけ,Richard Arthurや,David Rabouin,Vincezo De Risi,Siegmund Probst,そしてTzuchien Thoらと久しぶりに再開し,研究や近況について語ることができたことは,今後の研究を進める上でも重要な出来事だったように思う.

日本ではまだ前学期の授業を残しており,会議の期間に予定されていた授業の補講をしなければならなかったため,日程に余裕がなく,会議最終日の翌日土曜日に予定されていたハルツ山見学ツアーには参加できなかったのが残念である.大きな学会がヴァカンスに入った後すぐに予定される場合が多いので,休暇期間もなるべく国際的な基準に合わせてほしいものである.

ちなみに,帰りの飛行機でもチケットが勝手にキャンセルされているなどトラブルがあったが,同じ便で座席をとることができた.ルフトハンザは大規模な合理化と効率化を行ったが,どうも人員をカットしすぎたようで,こうした問題が起きやすくなっているようである.乗り継ぎはなるべく避けて,大都市からは電車で行くようにしたい(それでもストや遅れなどトラブルは日本よりも多そうだが).

途中,飛行機のトラブルなどもあったが,ここまで多くの助けや協力を得て,国際ライプニッツ会議に参加し,無事帰国できたことに感謝する.

(そのうち思い出しては,加筆していく予定)

ルヌーヴィエ(1877)「量の無限についてのノート」(翻訳)

本日発売の『数学セミナー』2023年6月号に,「実数と連続体を哲学する──数学基礎論争の一前史としてのルヌーヴィエの有限主義」と題して寄稿しました.

 
上記原稿の著者最終稿は,以下からDLできます(2023/7/7追記).
 
記事でも触れましたが,ルヌーヴィエは,1877年5月10日付の『哲学的批判』誌上に,「量の無限についてのノート」と題する論稿を寄せています.
Charles Renouvier, Note sur l'infini de quantité, La Critique Philosophique, le 10 mai 1877.
記事の作成途上で,このノートを翻訳しましたので,ついでにここに載せておきます.まだ少し訳語を迷っていたり,文意がとれていないような箇所もありますが,おいおい確定できればと思います.以下,翻訳です.
 
シャルル・ルヌーヴィエ
「量の無限についてのノート」(1877)
 
定義
 
1.与えられたもの(chose donnée)とは,それと同じ本性,あるいは異なる本性をもつ他のものから識別可能な任意のもので,その存在が,あるいは空間において,あるいは時間において,あるいは単に思考において定義可能なものを言う.
 与えられた集合(collection)あるいは多(multitude)とは,与えられたもののある集合ないし多である.
 
2.現実無限あるいは現実態にある無限とは,任意の所与[=与えられたもの]の集合で,異なる諸部分ないし諸要素が,それらの数的な集積(assemblage numérique)において考えられた場合,ある特定の数 n に対応しないもの──その n が何であろうと,またそれがどの大きさに到達しようと──を言う.
 現実無限に対して,可能者の無限とは,無際限と呼ばれているもののことである.
 
3.もし,例えば1,2,3などの抽象的な数の系列が問題であれば,私はそれを単に無際限ではなく,現実無限と呼ぶ.それは,実効的な数え上げの行為が,仮説によって,限界がないと知性によって把握される場合,この系列はこの知性のうちに,ある特定の数 n に対応しない──それがどんなに大きな n であっても──項の集まりとして,全体が一挙に表現されるであろうという前提に立つからである*1.
 
命題
 
1.具体的に(in concreto)与えられた集合とは,常に次のようなものである.すなわち,知性の法則──それがなければ感性の行使もいかなる経験も不可能な──に従って,その集合の諸対象を,1, 2, 3, など,という仕方で,識別し,数え上げ(nombrer),集積することができるものである.そして,それは,数え上げ(numération)が終わらねばならないか,あるいは実効的には終わりえないものである.
 
2.数え上げが終わりえない(interminable)という仮定においては,識別された具体者の系列と,1, 2, 3という抽象数の系列とのあいだで,並行関係を確立できる.というのも,これらの抽象者は,これらの具体者に必然的に一対一に(chacun à chacun)対応するからである.また,これらの抽象者の系列は無際限で,これらの具体者の多が延長する限り遠くに行き,尽きることはありえないからである*2.
 
3.先の命題から次のことが帰結するであろう.すなわち,もし抽象者の系列の現実無限の仮説がそれ自体矛盾した仮説であることが証明できる場合,同じ根拠によって,具体者の系列の現実無限の仮説はそれ自体矛盾した仮説であるということが証明されるであろう.実際,具体者の無限は,抽象者の無限が並行的なしかたで現実的にならない限り,現実的にはなりえない.もし前者[具体者の現実無限な系列]が,後者[抽象者の現実無限な系列]なしに成立したならば,また二つの列が,絶えず(一対一に)対応した後でも,一緒に終えることにならなかったならば,抽象者の系列は,全体において[原状・元の状態へと](ad integrum)与えられ得ず,他方を越えて延伸していき,したがって具体者の系列は,ある数 n に対応するであろうが,これは定義2に反する.
 
4.抽象者の系列の現実無限性という仮説は,それ自体において矛盾したものである.この無限数の不可能性は,ときおり表現されるように,いくつかの方法で証明されうる.ここでは極めて単純なものを紹介しよう.
 もし抽象者の系列:1,2,3,などが現実無限であるならば,それは実際に,それが絶対的に含む項と同じ数の偶数項を含む.なぜなら,それらの項の各々は,それが何であろうと,倍にすることができ,その倍[にされた数]は,すべての数の系列に必ず存在する偶数だからである.しかし,偶数の他に,この数列は奇数も等数かつ無限に含んでいる.したがって,この数列は,それが含んでいる以上の項を無限に多く含むことになるが,これは名辞矛盾(une contradiction in terminis)*3である.
 
5.与えられたもの(定義. 1)のすべての集合または多の現実無限は,抽象数の系列の現実無限の境遇に従わなければならず,不合理に陥ることなしには仮定されえない.したがって,そこから,空間において,時間において,あるいはそれらを理念的に仮定し増殖させる思考において互いに区別されうるいかなる存在者や現象も,たとえそれらを数え上げる手段が我々に欠けているとしても,それらの全体がそれ自体で数的に確定されていると仮定されることなしには,与えられていると仮定することはできないことになる.
 それゆえ,宇宙の異なる[判明な]現象の過ぎ去った系列には始まりがあったのであって,さもなければ,実行[実現]されたそれらの実際の総和は現実無限となってしまうであろう.また,それら[現象]の実効的な延長[広がり]と拡散は,それらを空間において考察しようと時間において考察しようと,存在しかつ異なる[判明な]ものとして考えることができるすべてのものが,それらの結合によって,単位として,ある確定した数を形成するように常になっているのである.
                                 ルヌーヴィエ

*1:現実的な数的無限を,もはやこれ以上増加することができないほど大きな数として特徴付けてしまうような誤解には,注意しなければならない.そこに,質の無限または完全性の概念を量の無限へと無反省に拡張したことから生まれた,想像または混雑した観念があるからである.実際,数的無限について考察した数学者たちは,この無限が,すべての有限数と同様に,単位の漸進的加増によって,無限や無限小が複数の階層を持つことの考察へと彼らを導いた,ということを認めた(そうでなければ,どうしてできたのだろう).数的無限の真の定義は,それを与えられた数として,したがって増加しうる数であると想定するのと同時に,すべての割り当て可能な数よりも大きい数であると想定することである.この二重の観点を維持するのが不可能であることに,明らかにしなければならない矛盾がある.

*2:抽象数の系列は無際限である.この命題は,形式的な証明を持つ.その証明は,任意の進数(numération)の体系において,与えられうる.2進数の体系をとってみよう.任意の書かれた数は,0(ゼロ)か1(単位)で終わる.前者の場合,最後の0を1で置き換えると,先の数より1だけ大きい数を得るだろう.後者の場合,最後の1を0で置き換え,この体系における加法に従って,左の列に1を移せ.さすれば,書くためにさらなる数字を使うことなく,再び先の数より1だけ大きい数を得るだろう.それゆえ,すべての与えられた数は,1(単位分)だけ増やすことができるが,この証明は一般的なものである.従って,数の系列は終わりえない.同様にまた,数は,無際限[不確定]なものとして,純粋な可能者(possible)でしかない.従って,それらが全て与えられているという想定には矛盾がある.この無際限の可能性の概念は,無限の観念のうちに実在的に存在するものであることに,今一度注目しよう.これまでそうしてきたように,「精神は数え上げのうちに限られている,事物はそうではないであろうのに対して」,と言ってはならない.反対に,事物は確かに限られており,精神がその前に立っているのであり,無限論者の考察に対して濫用されているのである.

*3:[訳註]名辞矛盾(contradictio in terminis)とは,「丸い四角」や「液体の氷」など,対立する語義によって引き起こされる言葉上の矛盾を指す.

ライプニッツ「より深遠な起源に由来する機械論の原理」(1702.5)の翻訳・訳解

久しぶりのブログ更新.

先日,日本ライプニッツ協会第11回大会にて,「延長とは何か?──連続体の本性と起源をめぐるライプニッツの考察──」と題して,研究発表をしてきました.

実は,初めて世に出した論文の中で,連続体の迷宮に対する積極的な回答が,力の概念にあると述べ,ライプニッツが形相的な原理を要請した理由を,彼の数学的自然学の基礎をめぐる力の形而上学の展開において考察することが今後の課題である,としたものの,最近までこの課題に取り掛かれていませんでした(池田真治,「ライプニッツの無限論と「連続体の迷宮」」,『哲学論叢』第31号,2004, p.47-48).

自身のこれまでの怠惰と,困難な課題に対する気概のなさを恥じるばかりですが,先の発表は,初心に帰って(?),その研究の再開としてあります.

研究熱が冷めないうちに,そのとき資料として付した,ライプニッツの1702年の論稿,「より深遠な起源に由来する機械論の原理」の翻訳を公開することにしました.以下より,ダウンロードできます.

池田 真治 (Shinji Ikeda) - 資料公開 - researchmap

ライプニッツがデカルト哲学に対する反論を,主に物体の本性に関する考え方の違いを中心に,彼自身の動力学とその形而上学の発展との関連で簡潔にまとめたものです.とりわけ,ライプニッツはデカルト派の物体則延長の学説を批判し,それに対して自身は物体のうちに自然生得的に植え付けられている動力学的な基礎を主張しています.その意味で,ライプニッツにおける物体や延長・連続性の概念と,力の概念との関係を伺う上でも,本稿は重要なテキストです.

まだ暫定版なので,訳語や訳解の検討を含め,この後もう少し修正すると思います.

今後の研究ですが,ライプニッツと「連続体の迷宮」に関する自身の研究を,アップデートしつつ,なんとかまとめられればと考えています.博論の書籍化ができていないので,それを目指したいものです.

後は,「連続体の迷宮」に関わるライプニッツのテキストや,普遍数学関連のテキストを翻訳していき,いずれどこかから,ライプニッツの数学論・自然哲学論集というかたちで,あるいは別のかたちでもいいので,何か出せればと思っています.

日本数理哲学史年表(不完全版)

日本数理哲学史年表(不完全版)

 

甚だ不完全なものだが、参考まで。戦前・戦後の京都学派を中心に。

追記していく可能性あり。他に付け加えるものがいろいろあると思われるので、ご教示いただければ幸い。

 

※ 翻訳は青字

 

1925 田辺元  『数理哲学研究』岩波書店

1926 戸坂潤  「幾何学と空間」『思想』

1928 戸坂潤  「空間概念の分析」『思想』

1928 カツシレル『カントと近代の数学』(下村寅太郎 訳)哲学論叢:岩波書店

1928 コーヘン 『プラトンのイデア論と数学』(高田三郎 訳)哲学論叢:岩波書店

1931 白石早出雄「現代数理哲学問題」『哲学講座第7巻』所収(150pp)誠文堂

1933 三宅剛一 『哲学と数学との交渉』(『岩波講座哲学:哲学と諸科学との交渉』シリーズの一巻)岩波書店

1933 フッセール『算術の哲学』(寺田弥吉 訳)モナス

1937 兒山敬一 『数理哲学』モナス

1938 ポアンカレ『科学と仮説』(河野伊三郎 訳)岩波文庫

1940 三宅剛一 『学の形成と自然的世界』弘文堂書房[みすず書房より1973年に再刊]

1942 ラッセル 『数理哲学序説』(平野智治 訳)弘文堂書房.[1954年,岩波文庫で再版;1966年,『数理哲学入門』として『世界の大思想 ラッセル』の巻に中村秀吉 訳で所収]

1943 ピエール・ブートルー『数学思想史』(河野伊三郎 訳)岩波書店

1944 下村寅太郎『無限論の形成と構造』弘文堂書房[みすず書房より1979年に再版]

1944 末綱怒一 『数学と数学史』弘文堂書房

1946 近藤洋逸 『幾何学思想史』伊藤書店(改訂版『新幾何学思想史』1966年)

1946 兒山敬一 『数学の哲学』武蔵野出版社

1946 ホワイトヘッド『数学入門』(河野伊三郎 訳)文求堂書店[1983年,大出晃 訳で『ホワイトヘッド著作集 第2巻』として出版]

1947 近藤洋逸 『数学思想史序説』三一書房

1947 三宅剛一 『数理哲学思想史』弘文堂

1947 末綱恕一 『数理と論理』弘文堂

1948 三田博雄 『数学史の方法論:数学の哲学のために』三一書房

1951 白石早出雄『数と連続の哲学』共立全書

1952 末綱恕一 『数学の基礎』岩波書店

1954 田辺元  『数理の歴史主義展開──数学基礎論覚書』筑摩書房

1957 伊東俊太郎「数理哲学の課題について」『科学基礎論研究』Vol. 3, No. 3, 5-11

1959 ワイル  『数学と自然科学の哲学』(菅原正夫,下村寅太郎,森繁雄 共訳)岩波書店

1961 永井博  『数理の存在論的基礎』創文社

1961 デデキント『数について──連続性と数の本質』(河野伊三郎 訳)岩波文庫

1963 マルティン『数理哲学の歴史』(斎藤義一 訳)理想社

1976 ヴェドベリ『プラトンの数理哲学』(山川偉也 訳)法律文化社

1976 サボー  『数学のあけぼの ギリシアの数学と哲学の源流を探る』(伊東俊太郎、中村幸四郎、村田全 共訳)東京図書

1977 沢口昭聿 『連続体の数理哲学』東海大学出版会

ジュラ・クリーマ「本性─普遍の問題」メモ

ジュラ・クリーマ「本性─普遍の問題」(『中世の哲学─ケンブリッジ・コンパニオン』、京都大学学術出版会、2012、pp. 279-298)

 

中世の哲学―ケンブリッジ・コンパニオン

中世の哲学―ケンブリッジ・コンパニオン

 

 

二回目だと思うが、あまりちゃんと覚えておらず、読み直し。ざっと読んだ場合でも、印象に残ったことだけでもいいので、ちゃんとメモをとるべき。研究ノートや研究メモは見返さない場合が多いので、差し障りのないところはブログに出していってもいいかもしれない。

===

アリストテレスによれば、学問の目標は、事物の本性(natura)の定義である。そこで哲学的に不可避な問いとして、そもそも本性とは何であるのか、という問いが生じた。

 

すなわち、本性は個々の事物の上に(あるいはうちに)実在するものなのか、それとも心的な構成物であり、事物を理解するときその理解のうちに存在するにすぎないものなのか。後者だとしたら、それはどのような基礎にもとづいて構成されるのか。

 

これが中世における普遍の問題である。

 

ボエティウスは普遍の問題を類と種の実在性に関する問題として提示した。ポルフュリオスの『イサゴーゲー』によれば、普遍は類と種や固有性、種差、付帯性の五つがある。

 

普遍にかんしては、すでにボエティウス以前に異なる立場があった。

 

・プラトンのイデア論:類や種などの普遍は心や物体から独立離存して存在する

・アリストテレス:類や種という普遍は、可感的事物に内在している

・アウグスティヌス:普遍的本性は神の知性のうちに存在する

 

アヴィセンナは、普遍に重要な区別を設ける。

すなわち、(1)普遍的本性の絶対的(他から切り離した)考察と、(2)本性が存在の場所であるさまざまな基体のうちに内在するかぎりで当の本性に当てはまることがらとの区別である。

普遍、たとえば馬性は、可感的事物のうちにも魂のうちにも内在せず、馬性の定義に付帯するものだとした。馬性それ自体は馬性だけからなる。

 

トマスは『存在者と本質について』で、アヴィセンナの区別を解説している。

 

(1)本性の絶対的考察は、固有の概念内容に即して考察される。この場合、本性について真であるのは、つまり、本性を主語にして当のものを述語として帰属させた場合に言明が真となるのは、その本性であるかぎりの本性に当てはまるものだけである。本性に当てはまらないものが帰属された場合には偽になる。

 

(2)本性の[基体内在的]考察は、特定の個体のうちで本性がもつような存在に即して考察される。

(2)の基体内在的に考察された本性は、二種類の存在をもつ。すなわち、

(2-i)個物における存在と、(2-ii)魂における存在である。

どちらの存在に即しても、本性にはその基体に応じた付帯性が随伴する。

 

トマスは「絶対的に考察された人間の本性は、あらゆる存在から抽象されているけれども、どのような存在も排除しないのだ、というのは明らかである」とする。

 

トマスはこのように『存在者と本質について』では、本性が存在から切り離して考察されうるというだけでなく、同じ本性が異なる諸事物のうちに存在しうるとまで述べている。

ただし、ここでの「同じ」はその個別的存在者のもつ数的一性ではありえない。なぜなら、本性の絶対的考察では、本性が「存在」から抽象がされているからである。スコラではこれを、「数的一性よりも弱い一性」と呼ぶ。現代的には、「同じタイプ」という意味でのタイプ同一性である。

 

トマスによれば、本性の絶対的考察では、心の外のさまざまな個物における存在から抽象するだけでなく、心のうちの存在からも抽象する。

 

心が本性をそれぞれ事物における個体化の条件から抽象して考察する場合にのみ、本性は共通なものとして認識されうる。

 

しかし、本性はもう心のうちにもう存在をもってしまっているのでは。

本性が心のうちにある場合にのみ抽象されたものでありそれゆえ普遍でもあるのに、本性が心のうちの存在から抽象されるとトマスが言っているのは、いったいどのような意味でなのか。

 

クリーマは、それ自体としてのその本性について言えることと、特定の条件下でのみその本性について言えることを区別するよう注意すべきだとする。

 

トマスの立場:普遍は心のうちにのみ存在するとする。

ただし、本性が個々の心のうちに存在するかぎりで普遍であるということと、固有の意味で普遍と言われるのは心のうちの存在としてのみであるということを区別する。[わかりづらい]

 

「抽象された普遍」には2つの含意がある。

すなわち、(イ)事物の本性それ自体と、(ロ)抽象あるいは普遍という規定である。認識されること・抽象されること・普遍であるという規定(ロ)は、ある事物の本性に付帯するものであり、その本性それ自体(イ)は、あくまで個々の事物のうちに存在する。

他方で、認識されること・抽象されること・普遍であるという規定(ロ)は知性のうちに存在する。

たとえば、認識ないし抽象された人間性は、あくまで個々の特定の人間のうちに存在するが、個体的条件なしでその人間性が把握されるということは、──つまりこれは人間性が抽象されるということであり、普遍性の概念はこのことに随伴するが──知性によって知覚されたことで人間性に付帯する。

 

クリーマ「したがって、普遍的な本性、つまり異なる個物について述語づけられるような本性は絶対的に考察された共通本性それ自体なのであるが、「複数の個物について述語づけられるような」ということ[つまり「普遍的な」という限定]がそのような本性に当てはまるのは、絶対的考察に即してではなくて、抽象する知性によって把握されているかぎりでのみである。つまり、そのような本性が精神の概念であるかぎりでのみである。」

 

このような概念枠は、「古い道」(via antiqua)と言われ、そこではさらに、心のうちの存在に即して本性に付帯する特性と、心の外の存在に即して本性に付帯する特性との間の区別がされていく。

 

これに対して、オッカムは「新しい道」(via moderna)という新しい概念枠を開拓していく。オッカムによれば、「古い道」を推し進めると、「xはP性のゆえにPである」というタイプの無限な命題が算出される。こうして言葉の数だけ存在者の数が増やされるが、これはオッカムにとって誤謬であり、真理から遠ざけるものにほかならない。

 

オッカムの立場:普遍が存在するのは心のうちのみであり、心の外の存在者はどれもみな個物である。そして、存在するものは心の外の個物と心のみである。心のうちに、あるいは世界のうちに内在するような共通本性や本質など最初から存在しない。

 

したがって、オッカムにとって、「本質が個物のうちに存在するのはどのようにしてなのか」という問いは、擬似問題にすぎない。

絶対的に考察されうる本質などはそもそもありはしない。

 

クリーマ「オッカムの計画のかなめは、われわれが単純な[非複合的な]普遍的概念を形成するプロセスにある。というのもわれわれの概念体系の全体を実在にしっかりと結びつけるのは、このような概念だからである。」

 

オッカムは、この単純な普遍的概念を形成するプロセスから、心的言語mental languageを構成する主要な語(項、名辞;terminus)が生まれるとする。

 

心的言語とは、あらゆる人間にとってなんらかのしかたで同じであって、慣習的に定められた書き言葉や話し言葉がそれに従属するような言語のことである。

 

たとえば「人間」という心的言語は、自然本性的(非規約的)に、可能的なものも含めた、人間個体全員を表示する。第一に、この語の形成は、それが表示する個体群の小さなサンプルの直接経験からである。また第二に、その後によって直接表示されるような単一の人間本性というようなものは存在しない。