ライプニッツの“Calculemus”すなわち「計算しよう!」という言明は、しばしば、現代のAIの先駆的思想として引き合いに出される。それは、ライプニッツの普遍学、とりわけ普遍的記号法の特徴的な思想で、論じたい問いや議題について自動的に推理・計算し、その判定結果について出力してくれる、理想的な記号的計算体系を指している。
“Calculemus”という言明自体、わりといろんなところでライプニッツが言っていた気がするし、自分も何度か自身の論稿で言及したことがある*1ので、どこかで邦訳されているはずだと思っていた。しかし、探してみた限りでは、意外に著作集にも、既存の翻訳にも見当たらない。しょうがないので、自ら該当箇所を見つけて、翻訳を付すことにした。(ちょこっと調べて済ますつもりが、思ってたよりも時間がかかったので、せっかくなので、久しぶりにブログにまとめることにした。)
“calculemus”の典拠としてもっとも引用されることが多いのは、ラッセル(Russell[1900], p. 170)やクチュラ(Couturat[1901], p. 98)らが引いているGP VII, 200に出てくるものである。私もそれで、よく知った気になっていたのかもしれない。アカデミー版では以下の箇所である。
[1] De Arte Characteristica ad Perficiendas Scientias Ratione Nitentes [1688夏(?)] (A VI 4, p. 913) [「理性に依拠する諸学を完成させるための記号法について」]
Quo facto quando orientur controversiae, non magis disputatione opus erit inter duos philosophos, quam inter duos Computistas. Sufficiet enim calamos in manus sumere sedereque ad abacos, et sibi mutuo (: accito si placet amico :) dicere: calculemus.
そのこと〔=あらゆる誤謬推理が単なる計算の誤りにほかならないことが確立されること〕がなされた暁には、論争が生じたとしても、二人の哲学者のあいだで議論を要することは、二人の計算家のあいだにおける以上には、もはやないであろう。というのも、ペンを手に取り、計算盤に向かって腰を下ろし、そして互いに(もしその方がよければ友人を呼び寄せたうえで)「計算しよう(calculemus)」と言い合えば、それで十分だからである。
少し文脈を補おう。ライプニッツは、論争を容易に決着させるためには、意味が一義的に確定した記号によって、算術の単純な計算をするのと同じように、計算できるようにするべきだと考える。そうすれば、誤謬推理は単なる計算ミスであることが明らかとなって、詭弁は(ライプニッツが理想としている真な思考体系を反映した)哲学的文法に違反したものと判定できるようになる。そこで、上の引用文に続き、そのような記号による推理計算システムが確立されれば、哲学的な議論は計算をすることと同義になろう、と言うのである。
“calculemus”という文言が直接出現するわけではないが、その思想内容が述べられている箇所は多数あり、それらを調べていくと、「一般学」(scientia generalis)の構想について述べた草稿群(A VI 4所収)、とりわけ1680年〜1685年頃に作成されたものに頻繁に登場することがわかった。その多くが、最近Stricklandによって英訳されたので、今ではよりアクセスしやすくなっていよう*2。
とはいえ、それらを列挙していき検討するとなると、これは本格的な研究になってしまい、時間も相当かかりそうである。“calculemus” が直接出現するわけではないが、その思想内容に当たるものは、1679年頃の普遍的計算や普遍的記号法の計画をめぐる草稿にすでに見られるし、「思考のアルファベット」や1666年の結合法に萌芽的起源がある。理性的な思考を計算に還元するというアイデアそのものはホッブズに先駆があり、普遍的記号法にはルルスの結合術やカバラ、普遍数学の伝統や近世の代数学など複数のルーツがある。ライプニッツがどのようにして記号的計算による論争や議論の一般的な判定術の思想に至り、また展開したのかをつぶさに探究するのは、それなりに大仕事になりそうである。そこで、以下では “calculemus” が直接出現するものにまず限って提示することにする。
さらに調べていくと、“calculemus” という用語は、1680年頃から着手された「一般学の基礎と範例」と題する草稿群のうち、とりわけ1682年頃の作品に出現が多いことがわかった。以下では、三つの作品でその典拠を確認してみよう。
[2] Synopsis libri cui titulus erit: Initia et Specimina Scientiae novae Generalis pro Instauratione et Augmentis Scientiarum ad publicam felicitatem. [1682春-秋(?)] (A VI 4, p. 443; GP VII, 64f.)
[その題目が「公共の幸福に資する諸学の刷新と進展のための新しい一般学の基礎と範例」となるであろう本の概観]
Quo adhibito semper terminari possunt controversiae quantum ex datis eas determinari possibile est, manu tantum ad calamum admota, ut sufficiat duos disputantes omissis verborum concertationibus sibi invicem dicere: calculemus; ita enim perinde ac si duo Arithmetici disputarent de quodam calculi errore, ipsa praescripta methodus etiam ignorantibus vel invitis exitum dabit. Ostenditur enim modus disputandi in forma, conveniens tractationi rerum, a taedio Scholasticorum syllogismorum vacuus, et supra distinctiones illas positus, quibus in scholis alter alterum eludit.
それ〔この方法〕が用いられるなら、論争は、与件(data)からそれを決定することが可能であるかぎり、つねに決着させることができる。しかも、ただ手をペンに添えるだけで、である。すなわち、二人の論争者が、言葉の言い争いをやめて、互いにこう言い合えば、それで足りるようになる。すなわち、「計算しよう(calculemus)」と。というのも、そうすれば、あたかも二人の算術家がある計算違いをめぐって論争しているのとちょうど同じように、あらかじめ定められた方法そのものが、たとえ〔当人たちが〕無知であろうと、あるいは不本意であろうと、決着を与えてくれるからである。かくして、事柄の取り扱いにかなった、形式に即した論争の仕方(modus disputandi in forma)が示される。それはスコラ学者の三段論法のうんざりするような煩瑣さを免れており、しかも、スコラ学派(schola)において一方が他方をはぐらかすのに用いる、あの〔語義上の〕区別立てを超えたところに置かれているのである。
ライプニッツは自身の普遍学を体系化した単著を生前何も出版しておらず、もちろんこの本の企画も他の計画と同様に未完に終わるのだが、この断片も重要な思想が込められている。
ライプニッツによれば、このSynopsisは、企画している「一般学」に関する本の序文のあとにくる、構成の予告として位置付けられている。面白いことに、ライプニッツは自身の原理がいかにデカルト派と異なるかを示すために、デカルトの『省察』「反論と答弁」を抜粋し、それに対する自身の再応答を提示する計画であるとしている。そうすることで、「かの傑出した人々がデカルトに求めながら空しく得られなかったものが、いかにして私によって補われるのかを、示すことにしよう」と言う(予告にとどまり、実現されていないのが残念)。
さらに、人間の判断についての通常の分析、すなわち世人の意見が一般に依拠している、弁証術的な諸原理も付すとしている。もっとも、これについては、ライプニッツはあまり重視しておらず、次のように述べる。「だが、真理の分析(Analysis veritatis)、すなわち我々の判断の是正にこそ、発見術(ars inveniendi)の奥義のすべてが懸かっており、それによって人間の知識は際限なく拡張されうるのであるから、それゆえ、我々が究極の分析(ultima analysis)にまで進み行くことが有益なのである」。
これに続いて、「永遠真理の原論(Elementa veritatis aeternae)」が扱われるとする。「そこでは、あらゆる事柄において、まったく厳密で、数学のそれに比肩する──いや、それどころか数学を超える──論証を与える方法が説き明かされる。数学を超える、というのも、数学者たちが多くのことを〔証明せずに〕前提してしまうのに対し、ここではそれらが証明されうるからである。かくして、ここにある新奇で驚嘆すべき計算法(calculus novus et mirificus)が提示される。それは我々のあらゆる推論のうちに場を占め、しかも算術や代数に劣らぬ精確さで進行するものである」。
「永遠真理の原論」というのは、──次の引用[3]にも登場するように──幾何学におけるユークリッド『原論』に相当する、永遠真理一般すなわち必然的真理の領域に関する『原論』の構想である。ライプニッツにおいては、理性の真理が支配する論理学や数学が依拠する諸原理だけでなく、形而上学の諸原理もこの「一般学の基礎」で扱われる「永遠真理の原論」に含まれよう。そして、諸学はその「原論」に依拠する「範例」として扱われよう。
注目すべきことに、ライプニッツはこの普遍的計算法が、数学的前提をも証明するものである点で、数学的厳密性をも超えるものであるとしている。
こうして、上の引用文が主張される。
[3] Guilielmi Pacidii initia et specimina SCIENTIAE GENERALIS [1682春(?)] (A VI, 4, p. 492f.) [「グィリェルムス・パキディウスの一般学の基礎と範例」]
次も、同じく「一般学の基礎と範例」に関する企画に関わる草稿からである。"グィリェルムス・パキディウス"というのは、お察しの通り、Gottfried Wilhelmをラテン語で言い換えたもので、とりわけ"パキディウス"は「パクス=平和」、「デウス=神」から成り、対話篇でもしばしば用いるライプニッツお気に入りのペンネームである。
Modum ergo tradere aggredior, quo semper homines ratiocinationes suas in omni argumento ad calculi formam exhibere controversiasque omnes finire possunt, ut non jam clamoribus rem agere necesse sit, sed alter alteri dicere possit: calculemus.
そこで私は、次のような方法を提示することに着手する。すなわち、それによって人々が、いかなる論題に関しても、つねに自らの推論を計算の形式へともたらして示し、いっさいの論争に決着をつけることのできる、そのような方法をである。それは、もはや声高な言い争いによって事を運ぶ必要はなく、一方が他方にこう言えば足りるようにするためである。すなわち、「計算しよう(calculemus)」と。
少し前後の文脈を補うと、ライプニッツは予定している本書で、算術家の計算や幾何学者の図形に比肩しうる、絶対的真理あるいは(与件が不十分な場合は)最大の蓋然性の度合いをもつ結論をもたらしてくれる、そういう論証がいかにして可能になるのかを示すとする。それは、「永遠真理の原論(Elementa Veritates aeternae)」を示すことによってであるとする。すなわち、ユークリッドによる幾何学の『原論』があるように、永遠真理一般にも『原論』を与えることをライプニッツは宣言する。ユークリッドの論証にも──後世の受容史で、彼の注釈者たちによって何度も修正が検討されてきたように──不備があるわけだが、誤りの危険からは免れている。というのも、ユークリッドが論証で省略した事柄の大半は常識や無数の経験によって裏づけられているからである。「幾何学でさえこうであるとすれば、このような〔幾何学がもつ〕厳密さ(acribeia)からはるかに隔たっていながら、しかも欺かれやすく、結論を経験によって吟味することも難しいような論題に携わっている者たちについては、いったい何と言うべきであろうか」として、上の引用文に続く。
また、引用に後続する文章では、計算の結果、両者の論拠について、その有利な点・不利な点が見積もられて、あたかも収支の帳簿のように総計が算出されて、どちらの議論が勝利するのかが精密に判定されることが述べられている。
そして、判定の務めが、正しく衡量された諸論拠の表を明晰に配列し、結論へと至らしめることにあるのに対して、発見の務めが、判定すべき問いを立てたり、論拠ないし与件そのものを掘り出すことにあるとして、判定術と発見術を区別している。
[4] Ad Constitutionem Scientiae Generalis [1682春?] (A VI 4, p. 450)[「一般学の構成に向けて」]
最後に紹介するのは、「一般学の構成に向けて」と題する草稿群のうち、「最初の試み(Erster Ansatz)」に現れるものである。
ライプニッツはそこで、(一般学に関する)自身の構想を「大いなる術(ars Magna)」と呼び、その着想が少年の頃からあったとする。これは即座にルルスの同名の著作を連想させるが、ライプニッツは「その術たるや、私が読み聞きしえたかぎりでは、人々のあいだにその存在の予感すらあったとは思われないほどのものである」として、あくまで独自の着想であることをアピールしている。それは、公共の大義のためにあるものであって、説得に役立ち、特段の才能をもっていなくても、優れた意志を持つ人々が互いに協力すれば、わずかな時間で、大した費用もかけずに達成できるものであるとする。
こうして、一般学をどのように構成するのかについて、次のようにその計画を述べる。
Primum scilicet constituetur Canon, sive Ars quaedam judicandi, cujus ope omnes controversiae quae sive de scientiis humanis sive etiam de singularibus vitae negotiis, rebusque agendis oriri possunt, palpabili quodam modo ad calculi Mathematici instar tam accurate definiantur, quam ex datis utrinque rationibus possibile est. Ita scilicet, ut cum sufficientia sunt data ad veritatem infallibiliter determinandam, demonstratio habeatur veritatis; sin minus, habeatur saltem interim demonstratio maximae probabilitatis, quae argumentorum utrinque pugnantium commodorumque atque incommodorum aestimatione certo semper determinari ex datis potest. Nec jam clamoribus res agatur, sed dissentientium alter alteri, aut etiam quisque secum disputans sibi dicere possit: calculemus.
すなわち、まず一つの規準(Canon)、いわばある判定の術(Ars judicandi)が確立されることになる。その助けによって、人間の諸学問に関して生じうるものであれ、あるいはまた生活上の個別の事柄や実務に関して生じうるものであれ、いっさいの論争が、いわば手に触れうるような仕方で、数学的計算になぞらえて、両側から与えられた論拠(rationes)にもとづいて可能なかぎり正確に裁定される。すなわち次のような仕方で。──真理を誤りなく確定するのに十分な与件(data)があるときには、真理の論証が得られ、そうでない場合にも、少なくとも当座のあいだは、最大蓋然性の論証が得られる。この後者の論証は、両側で相争う論拠と、有利な点および不利な点とを衡量することによって、与件から、つねに確実に規定されうるのである。そしてもはや、事は怒号によって争われるのではなく、意見を異にする者どうしの一方が他方に、あるいはまた各人が自分自身と論じ合いながら自らに、こう言うことができるようになる。「計算しよう(calculemus)」と。
引用続きの箇所で、この草稿でも、「永遠真理の原論(Elementa veritatis aeternae)」を確立することが主張され、その上で、ここで言われている規準(Canon)、すなわち判定の術の端緒(さわり)を提示すると述べている。
ライプニッツは、あらゆる誤りが、「計算の誤り」か、「脱落の誤り」かであるとする。「計算の誤りは、計算の規則そのものによって、つねに検出し訂正することができる。しかし脱落、すなわち不十分な枚挙を正すことは、形式(forma)にではなく質料[内容](materia)にかかわる。すなわち、それは判定の術(ars judicandi)にではなく、発見の術(ars inveniendi)に属するのである」。“calculemus” は「判定の術」であり、計算すなわち形式的な正しさに関わる。したがって、“calculemus” は「計算の誤り」を正すものである。他方で、諸前提を枚挙によって網羅するなどして「脱落の誤り」を正すのは、「発見の術(ars inveniendi)」に委ねられており、[3]と同様、ここでも判定術と発見術が明確に区別されている。
まとめ
さて、いちおう4つのテキストに典拠を確認・翻訳し、前後の文脈を踏まえた上で、内容についても多少とも検討した。スコラ的討論や論者間の怒号、言葉の争いなど、〈何に代わって〉「計算」するのかや、ペンや計算盤など〈何によって〉計算するのかなどについては異同があり、より綿密な比較検討をしなければならないところがあるが、ひとまず共通点や独自な特徴に注目したい。検討から分かったいくつかのことは、以下のことである。
- ライプニッツの “calculemus” は、算術の計算をモデルに、論争を容易に決着させるための判定法が確立された場合に言われうるものである。[1][2][3][4]
- “calculemus” という用語の直接的な出現は、少なくとも1682年頃の「一般学」に関する草稿群にすでに確認できる。[2][3][4]
- その判定法は、「一般学の基礎」を形成する「規準(カノン)」[4]、ないし「永遠真理の原論」に基づいて判定する術である。[2][3][4]
- その判定法によって、論争の勝敗や、論証の形式的な誤りが明らかにされる。[1][2][3][4]
- この判定術は、形式的な正しさにかかわり、諸前提の枚挙を担う「発見術」とは、その射程が明確に区別される。[3][4]
- それは、数学的前提をも証明する点で、算術や代数、あるいは『原論』の証明における数学的厳密性に同等なもの[2][3]、あるいは数学的厳密性をすら凌駕するもの[2]として想定されている。
- それは、スコラの三段論法の煩雑さを免れており、またスコラの討論より精確なものである。[2]
- この判定術は、確実な絶対的真理のみならず、蓋然性や実践的判断にも拡張して適用されうるものである。[3][4]
- こうした判定術を含む「一般学」の目的は、公共の福祉のためである。[2][3][4]
今回は、手始めということで、ごく簡便で拙速な検討にとどまった。「発見術」についてもライプニッツは多義的に使用しており、結合術を指す場合や、分析/総合に関して言われる場合もあり、それぞれの術語についてもより丁寧に検討をしなければならないところである。ライプニッツの一般学の構想の全体像や、ライプニッツがCalculemusの思想をどのように形成し、展開していったのかなどについては、また今後の課題としたい。


