labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

抽象の問題の神学的文脈について──八木雄二『神を哲学した中世』(新潮社、2012)第5章メモ

たまたま大学図書館にILLで借りた本の返却と購入図書の受け取りに寄った際、研究課題である「抽象と概念形成の問題」の参考になりそうだったので借りてきた。前から気になってはいたが、もっと早くに買っておいたら良かったかもしれない。

 

ただいくつか不満もあり、選書だからか、脚注がなく、参照箇所がわからず典拠が辿れないところが多かった。また、現代的にはコレコレと述べている箇所が、かなり単純化された立場ないし見解に限定されており、考察の余地が大いにあるものに映った。

===

第5章「中世神学のベールを剥ぐ」メモ

 

「抽象」は現代でも、認識ないし認知に関して頻繁に使用される用語であるが、抽象という言葉の意味は、古代中世と近代以降とではまったく異なる。

 

抽象という言葉のもつ意味が変化したのは、中世末期に登場した「唯名論」によってである。唯名論では一般に、普遍は実在ではなく、ただの名前に過ぎないとされる。しかし、中世半ばまでは、普遍は単なる名前ではなく実在であるという「実在論」の立場が主流派であった。それというのも、普遍論争という哲学的議論には、神が普遍として実在するのでなければならないという神学的文脈があったからである。そこでは、神は、究極の普遍であり、究極の抽象存在である。そして、存在や一などの最上級の超越的範疇を含めて、普遍は、感覚的個別者からの知性の抽象を介して知性的に認識できるものとされた。

 

このように、知性に独自の作用によって感覚では捉えられない客観的実在の本質ないし本性が把握されるとするところに、中世スコラの形而上学が成り立つ。(私見ではこのことは、デカルトでも同様に継承される。)そこでは、普遍は、心に抱かれた概念の名前ではなく、それに対応するものが心の外に見えないしかたで実在する、そういう一種の「もの」であると考えられた。

 

しかしこの見方は近代になって、観念的と見なされ否定されるようになる。また、中世においては、普遍を、万有引力のように客観的な関数的関係として成り立つ普遍法則として理解するような素地はなく、「もの」として実在すると理解した。