labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ルヌーヴィエ(1877)「量の無限についてのノート」(翻訳)

本日発売の『数学セミナー』2023年6月号に,「実数と連続体を哲学する──数学基礎論争の一前史としてのルヌーヴィエの有限主義」と題して寄稿しました.

 
上記原稿の著者最終稿は,以下からDLできます(2023/7/7追記).
 
記事でも触れましたが,ルヌーヴィエは,1877年5月10日付の『哲学的批判』誌上に,「量の無限についてのノート」と題する論稿を寄せています.
Charles Renouvier, Note sur l'infini de quantité, La Critique Philosophique, le 10 mai 1877.
記事の作成途上で,このノートを翻訳しましたので,ついでにここに載せておきます.まだ少し訳語を迷っていたり,文意がとれていないような箇所もありますが,おいおい確定できればと思います.以下,翻訳です.
 
シャルル・ルヌーヴィエ
「量の無限についてのノート」(1877)
 
定義
 
1.与えられたもの(chose donnée)とは,それと同じ本性,あるいは異なる本性をもつ他のものから識別可能な任意のもので,その存在が,あるいは空間において,あるいは時間において,あるいは単に思考において定義可能なものを言う.
 与えられた集合(collection)あるいは多(multitude)とは,与えられたもののある集合ないし多である.
 
2.現実無限あるいは現実態にある無限とは,任意の所与[=与えられたもの]の集合で,異なる諸部分ないし諸要素が,それらの数的な集積(assemblage numérique)において考えられた場合,ある特定の数 に対応しないもの──その が何であろうと,またそれがどの大きさに到達しようと──を言う.
 現実無限に対して,可能者の無限とは,無際限と呼ばれているもののことである.
 
3.もし,例えば1,2,3などの抽象的な数の系列が問題であれば,私はそれを単に無際限ではなく,現実無限と呼ぶ.それは,実効的な数え上げの行為が,仮説によって,限界がないと知性によって把握される場合,この系列はこの知性のうちに,ある特定の数 に対応しない──それがどんなに大きな であっても──項の集まりとして,全体が一挙に表現されるであろうという前提に立つからである*1
 
命題
 
1.具体的に(in concreto)与えられた集合とは,常に次のようなものである.すなわち,知性の法則──それがなければ感性の行使もいかなる経験も不可能な──に従って,その集合の諸対象を,1, 2, 3, など,という仕方で,識別し,数え上げ(nombrer),集積することができるものである.そして,それは,数え上げ(numération)が終わらねばならないか,あるいは実効的には終わりえないものである.
 
2.数え上げが終わりえない(interminable)という仮定においては,識別された具体者の系列と,1, 2, 3という抽象数の系列とのあいだで,並行関係を確立できる.というのも,これらの抽象者は,これらの具体者に必然的に一対一に(chacun à chacun)対応するからである.また,これらの抽象者の系列は無際限で,これらの具体者の多が延長する限り遠くに行き,尽きることはありえないからである*2
 
3.先の命題から次のことが帰結するであろう.すなわち,もし抽象者の系列の現実無限の仮説がそれ自体矛盾した仮説であることが証明できる場合,同じ根拠によって,具体者の系列の現実無限の仮説はそれ自体矛盾した仮説であるということが証明されるであろう.実際,具体者の無限は,抽象者の無限が並行的なしかたで現実的にならない限り,現実的にはなりえない.もし前者[具体者の現実無限な系列]が,後者[抽象者の現実無限な系列]なしに成立したならば,また二つの列が,絶えず(一対一に)対応した後でも,一緒に終えることにならなかったならば,抽象者の系列は,全体において[原状・元の状態へと](ad integrum)与えられ得ず,他方を越えて延伸していき,したがって具体者の系列は,ある数 n に対応するであろうが,これは定義2に反する.
 
4.抽象者の系列の現実無限性という仮説は,それ自体において矛盾したものである.この無限数の不可能性は,ときおり表現されるように,いくつかの方法で証明されうる.ここでは極めて単純なものを紹介しよう.
 もし抽象者の系列:1,2,3,などが現実無限であるならば,それは実際に,それが絶対的に含む項と同じ数の偶数項を含む.なぜなら,それらの項の各々は,それが何であろうと,倍にすることができ,その倍[にされた数]は,すべての数の系列に必ず存在する偶数だからである.しかし,偶数の他に,この数列は奇数も等数かつ無限に含んでいる.したがって,この数列は,それが含んでいる以上の項を無限に多く含むことになるが,これは名辞矛盾(une contradiction in terminis)*3である.
 
5.与えられたもの(定義. 1)のすべての集合または多の現実無限は,抽象数の系列の現実無限の境遇に従わなければならず,不合理に陥ることなしには仮定されえない.したがって,そこから,空間において,時間において,あるいはそれらを理念的に仮定し増殖させる思考において互いに区別されうるいかなる存在者や現象も,たとえそれらを数え上げる手段が我々に欠けているとしても,それらの全体がそれ自体で数的に確定されていると仮定されることなしには,与えられていると仮定することはできないことになる.
 それゆえ,宇宙の異なる[判明な]現象の過ぎ去った系列には始まりがあったのであって,さもなければ,実行[実現]されたそれらの実際の総和は現実無限となってしまうであろう.また,それら[現象]の実効的な延長[広がり]と拡散は,それらを空間において考察しようと時間において考察しようと,存在しかつ異なる[判明な]ものとして考えることができるすべてのものが,それらの結合によって,単位として,ある確定した数を形成するように常になっているのである.
                                 ルヌーヴィエ

*1:現実的な数的無限を,もはやこれ以上増加することができないほど大きな数として特徴付けてしまうような誤解には,注意しなければならない.そこに,質の無限または完全性の概念を量の無限へと無反省に拡張したことから生まれた,想像または混雑した観念があるからである.実際,数的無限について考察した数学者たちは,この無限が,すべての有限数と同様に,単位の漸進的加増によって,無限や無限小が複数の階層を持つことの考察へと彼らを導いた,ということを認めた(そうでなければ,どうしてできたのだろう).数的無限の真の定義は,それを与えられた数として,したがって増加しうる数であると想定するのと同時に,すべての割り当て可能な数よりも大きい数であると想定することである.この二重の観点を維持するのが不可能であることに,明らかにしなければならない矛盾がある.

*2:抽象数の系列は無際限である.この命題は,形式的な証明を持つ.その証明は,任意の進数(numération)の体系において,与えられうる.2進数の体系をとってみよう.任意の書かれた数は,0(ゼロ)か1(単位)で終わる.前者の場合,最後の0を1で置き換えると,先の数より1だけ大きい数を得るだろう.後者の場合,最後の1を0で置き換え,この体系における加法に従って,左の列に1を移せ.さすれば,書くためにさらなる数字を使うことなく,再び先の数より1だけ大きい数を得るだろう.それゆえ,すべての与えられた数は,1(単位分)だけ増やすことができるが,この証明は一般的なものである.従って,数の系列は終わりえない.同様にまた,数は,無際限[不確定]なものとして,純粋な可能者(possible)でしかない.従って,それらが全て与えられているという想定には矛盾がある.この無際限の可能性の概念は,無限の観念のうちに実在的に存在するものであることに,今一度注目しよう.これまでそうしてきたように,「精神は数え上げのうちに限られている,事物はそうではないであろうのに対して」,と言ってはならない.反対に,事物は確かに限られており,精神がその前に立っているのであり,無限論者の考察に対して濫用されているのである.

*3:[訳註]名辞矛盾(contradictio in terminis)とは,「丸い四角」や「液体の氷」など,対立する語義によって引き起こされる言葉上の矛盾を指す.