labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ「フーシェ氏の反論に関する覚書」(部分訳)

ライプニッツのテキストから以下を抄訳してみました。

題目:「フーシェ氏の反論に関する覚書」

原題:REMARQUES SUR LES OBJECTIONS DE M. FOUCHER

日付:1695年9月12日より後に起草

典拠:A VI, 5, VE: 2290

ライプニッツの心身の結合に関する予定調和の「新説」に対して、フーシェが即座に反対論文を書いたのですが、それに関してライプニッツが考察をメモしたものです。

「連続体の合成の迷宮」に関わる文書で、抽象と実在の関係に関してライプニッツが率直な考えを簡潔に表明している、極めて重要なテキストです。以下、本文。

 

フーシェ氏の反論に関する覚書」

 

フーシェの批判:「つねに分割可能な一なるものというのは、そこに原理が存在しないようなキメラ的な合成体にすぎない・・・延長の本質的原理は実際には存在しないであろう。」

 

ライプニッツの応答:

「反論の著者は私の考えをあまりよく理解していないようだ。延長あるいは空間、そしてそこに認識できる表面、線、そして点は、秩序の関係ないし共存在の秩序でしかない。そのことは、実際に現実存在するもの(l’existent effectif)にとってだけでなく、そこにあるものの代わりに置くことのできる、可能的なもの(le possible)にとっても成り立つ。こうして、それらは合成する原理を持たないし、数も〔合成原理を〕持たない。切られた数(le Nombre Rompu)たとえば1/2は、2/4や4/8などにさらに切ることができる。そしてこのことは、最も小さい分数に到達すること、あるいは、この数を究極的な要素の集まりによって形成された一つの全体(un Tout)として認識することなしに、無限に続く。線にかんしても同様に、この数の場合とまったく同じようにして、分割することができる。また、適切に言えば、抽象的な数1/2は極めて単純な比(un rapport)であり、他の分数の合成によって形成されたのではまったくないものである。しかし、数え上げられた事物のうちに2/4と1/2のあいだの等しさを見出せる。同じことは、抽象的線(la ligne abstraite)についても言うことができる。すなわち、合成は具体的なもの(les concrets)のうちにしかない、あるいはその抽象的線が比を示すところの物塊のうちにしかない。

そして、数学的点が場所を持つのもこの種のことであり、数学的点は様態でしかない、つまり端でしかない。抽象的線のうちでは、あらゆるものは不確定なので、すべての可能であるものを考慮して、ある〔数の〕分数におけるように、異なる仕方でこれらの点を指定する現実的になされる諸分割を、苦労することなしに持つことができる。しかし、現実的な実体的事物において、全体は単純実体のある結果ないし集積である、あるいは実在的単位の多である。そして、観念的なものと現実的なものの混同が、すべてを混乱させて、連続体の合成の迷宮を作ったものなのである〔Et c’est la confusion de l’ideal et de l’actuel qui a tout embrouillé et fait le labyrinthe de compositione continui.〕。

点から線を合成する者たちは、理念的な事物のうちに、あるいは、そうする必要のない全く別の比のうちに、第一の要素を探求してきました。数あるいは(共存在可能な事物の秩序ないし関係を含む)空間として、比が点の集積によって形成されえないことを見出した者たちは、実体的実在の第一要素を否定することで、あたかもそうした実体的実在が原初的な単位をもたなかったかのように、あるいはあたかも単純実体が存在しなかったかのようになって、大部分誤ってしまうのである。

しかしながら、数と線は、そのような合成をもたないからといって、キメラ的なもの〔choses chimeriques〕では決してない。なぜなら、それらはそのうちに自然の諸現象を支配している永遠真理を含むものであるからである。抽象的に捉えられた1/2と1/4が互いに独立である、と言うことができるように。あるいはむしろ、(スコラ学者たちが語るように、思惟の表徴〔le signe de la raison〕において)全体的な比1/2が部分的な比1/4に先行する。というのも、観念的な秩序を考えれば、4分に至るのは半分の下位分割によってだからである。そして、線についても同様である、すなわち全体は部分に先立つ。なぜなら、この部分は可能的なものでしかなく、したがって観念的なものだからである。

しかし、実在においては、現実的になされる分割しか関与せず、羊の群れのように、全体は〔第一の要素の〕結果ないし集積でしかない。それがどれほど小さくともある物塊のうちに入っている単純実体の数が無限であるのは本当である。というのも、動物身体の実在的一性をなす魂を除き、(たとえば)羊の身体は、現実的に下位分割される、すなわち、不可視な諸動物あるいは諸植物の集積であり、それらもまたそれらの実在的一性をなすものを除いて同様に合成されているからである。そして、そのことが無限に進行するとはいえ、最終的にこれらの〔実在的〕単位に帰する〔還元される〕ことは明らかである。残されたものあるいは結果するものは、よく基礎づけられた現象にすぎない。」