ジュラ・クリーマ「本性─普遍の問題」メモ
ジュラ・クリーマ「本性─普遍の問題」(『中世の哲学─ケンブリッジ・コンパニオン』、京都大学学術出版会、2012、pp. 279-298)
二回目だと思うが、あまりちゃんと覚えておらず、読み直し。ざっと読んだ場合でも、印象に残ったことだけでもいいので、ちゃんとメモをとるべき。研究ノートや研究メモは見返さない場合が多いので、差し障りのないところはブログに出していってもいいかもしれない。
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アリストテレスによれば、学問の目標は、事物の本性(natura)の定義である。そこで哲学的に不可避な問いとして、そもそも本性とは何であるのか、という問いが生じた。
すなわち、本性は個々の事物の上に(あるいはうちに)実在するものなのか、それとも心的な構成物であり、事物を理解するときその理解のうちに存在するにすぎないものなのか。後者だとしたら、それはどのような基礎にもとづいて構成されるのか。
これが中世における普遍の問題である。
ボエティウスは普遍の問題を類と種の実在性に関する問題として提示した。ポルフュリオスの『イサゴーゲー』によれば、普遍は類と種や固有性、種差、付帯性の五つがある。
普遍にかんしては、すでにボエティウス以前に異なる立場があった。
・プラトンのイデア論:類や種などの普遍は心や物体から独立離存して存在する
・アリストテレス:類や種という普遍は、可感的事物に内在している
・アウグスティヌス:普遍的本性は神の知性のうちに存在する
アヴィセンナは、普遍に重要な区別を設ける。
すなわち、(1)普遍的本性の絶対的(他から切り離した)考察と、(2)本性が存在の場所であるさまざまな基体のうちに内在するかぎりで当の本性に当てはまることがらとの区別である。
普遍、たとえば馬性は、可感的事物のうちにも魂のうちにも内在せず、馬性の定義に付帯するものだとした。馬性それ自体は馬性だけからなる。
トマスは『存在者と本質について』で、アヴィセンナの区別を解説している。
(1)本性の絶対的考察は、固有の概念内容に即して考察される。この場合、本性について真であるのは、つまり、本性を主語にして当のものを述語として帰属させた場合に言明が真となるのは、その本性であるかぎりの本性に当てはまるものだけである。本性に当てはまらないものが帰属された場合には偽になる。
(2)本性の[基体内在的]考察は、特定の個体のうちで本性がもつような存在に即して考察される。
(2)の基体内在的に考察された本性は、二種類の存在をもつ。すなわち、
(2-i)個物における存在と、(2-ii)魂における存在である。
どちらの存在に即しても、本性にはその基体に応じた付帯性が随伴する。
トマスは「絶対的に考察された人間の本性は、あらゆる存在から抽象されているけれども、どのような存在も排除しないのだ、というのは明らかである」とする。
トマスはこのように『存在者と本質について』では、本性が存在から切り離して考察されうるというだけでなく、同じ本性が異なる諸事物のうちに存在しうるとまで述べている。
ただし、ここでの「同じ」はその個別的存在者のもつ数的一性ではありえない。なぜなら、本性の絶対的考察では、本性が「存在」から抽象がされているからである。スコラではこれを、「数的一性よりも弱い一性」と呼ぶ。現代的には、「同じタイプ」という意味でのタイプ同一性である。
トマスによれば、本性の絶対的考察では、心の外のさまざまな個物における存在から抽象するだけでなく、心のうちの存在からも抽象する。
心が本性をそれぞれ事物における個体化の条件から抽象して考察する場合にのみ、本性は共通なものとして認識されうる。
しかし、本性はもう心のうちにもう存在をもってしまっているのでは。
本性が心のうちにある場合にのみ抽象されたものでありそれゆえ普遍でもあるのに、本性が心のうちの存在から抽象されるとトマスが言っているのは、いったいどのような意味でなのか。
クリーマは、それ自体としてのその本性について言えることと、特定の条件下でのみその本性について言えることを区別するよう注意すべきだとする。
トマスの立場:普遍は心のうちにのみ存在するとする。
ただし、本性が個々の心のうちに存在するかぎりで普遍であるということと、固有の意味で普遍と言われるのは心のうちの存在としてのみであるということを区別する。[わかりづらい]
「抽象された普遍」には2つの含意がある。
すなわち、(イ)事物の本性それ自体と、(ロ)抽象あるいは普遍という規定である。認識されること・抽象されること・普遍であるという規定(ロ)は、ある事物の本性に付帯するものであり、その本性それ自体(イ)は、あくまで個々の事物のうちに存在する。
他方で、認識されること・抽象されること・普遍であるという規定(ロ)は知性のうちに存在する。
たとえば、認識ないし抽象された人間性は、あくまで個々の特定の人間のうちに存在するが、個体的条件なしでその人間性が把握されるということは、──つまりこれは人間性が抽象されるということであり、普遍性の概念はこのことに随伴するが──知性によって知覚されたことで人間性に付帯する。
クリーマ「したがって、普遍的な本性、つまり異なる個物について述語づけられるような本性は絶対的に考察された共通本性それ自体なのであるが、「複数の個物について述語づけられるような」ということ[つまり「普遍的な」という限定]がそのような本性に当てはまるのは、絶対的考察に即してではなくて、抽象する知性によって把握されているかぎりでのみである。つまり、そのような本性が精神の概念であるかぎりでのみである。」
このような概念枠は、「古い道」(via antiqua)と言われ、そこではさらに、心のうちの存在に即して本性に付帯する特性と、心の外の存在に即して本性に付帯する特性との間の区別がされていく。
これに対して、オッカムは「新しい道」(via moderna)という新しい概念枠を開拓していく。オッカムによれば、「古い道」を推し進めると、「xはP性のゆえにPである」というタイプの無限な命題が算出される。こうして言葉の数だけ存在者の数が増やされるが、これはオッカムにとって誤謬であり、真理から遠ざけるものにほかならない。
オッカムの立場:普遍が存在するのは心のうちのみであり、心の外の存在者はどれもみな個物である。そして、存在するものは心の外の個物と心のみである。心のうちに、あるいは世界のうちに内在するような共通本性や本質など最初から存在しない。
したがって、オッカムにとって、「本質が個物のうちに存在するのはどのようにしてなのか」という問いは、擬似問題にすぎない。
絶対的に考察されうる本質などはそもそもありはしない。
クリーマ「オッカムの計画のかなめは、われわれが単純な[非複合的な]普遍的概念を形成するプロセスにある。というのもわれわれの概念体系の全体を実在にしっかりと結びつけるのは、このような概念だからである。」
オッカムは、この単純な普遍的概念を形成するプロセスから、心的言語mental languageを構成する主要な語(項、名辞;terminus)が生まれるとする。
心的言語とは、あらゆる人間にとってなんらかのしかたで同じであって、慣習的に定められた書き言葉や話し言葉がそれに従属するような言語のことである。
たとえば「人間」という心的言語は、自然本性的(非規約的)に、可能的なものも含めた、人間個体全員を表示する。第一に、この語の形成は、それが表示する個体群の小さなサンプルの直接経験からである。また第二に、その後によって直接表示されるような単一の人間本性というようなものは存在しない。