ライプニッツからホッブズへの手紙(1670年7月23日)
引き続き、ライプニッツにおけるホッブズのコナトゥス概念の受容を、もう少し詰めたいので、ホッブズ宛書簡を読むことにした。レムカーの英訳とアカデミー版原典(A II-1, 90-94)を参照する。ただし、レムカーが用いたゲルハルト版には、アカデミー版と比べてかなり欠けている箇所がある。
若きライプニッツはホッブズから大きな影響を受け、その情熱を手紙にしたためたが、ホッブズから返事が来ることはなかった。ライプニッツも、まだ名が売れていない者から大物への突然の手紙であることは承知していたようで、「もしわたしの手紙がぶしつけだったら、無視してもらってもかまわない」、「誤解があるかもしれない」という感じで書いているので、実際、返す必要がないと判断したのかもしれない。ホッブズはこのとき、すでに82歳の高齢で、返事を書ける状態ではなかったかもしれない。しかし、ライプニッツも冒頭に、「まだ生きているとは」と書くのはどうかと思う。ともかく、この手紙は、同時期のトマジウス宛書簡および「抽象的運動論」(1671)とともに、初期ライプニッツの自然観を知る上で重要なのである。
まず、運動の一般的原理について、ホッブズは、静止状態にある物体は、たとえそれがどれほど大きくとも、運動する物体のわずかな運動によって、推されうる、としている。手紙の前半は、市民論・自然法についてであり、自然状態における完全な自由についてのホッブズの定義にも触れている。あなたの物体論や市民論での一般的原理に関する定義に対し、世間では誤まった応用や誤った解釈が多いが、わたしはよく分かっていますよ、という感じである。わたしはライプニッツの法学方面はよく分からないので、識者に分析をまかせたいと思う。
後半は事物の本性(de rerum natura)すなわち物体論について、とりわけ運動の抽象的原理について(de abstractis motuum)である。ライプニッツは、運動状態にある他の物体に接触されるのでないかぎり、物体は動かされず、また、運動は、いったん運動しはじめたら、何かあるものによって妨げられないかぎり運動し続けるというホッブズの一般的運動の原理に完全に同意する("et Tibi quidem prorsus assentior corpus a corpore non moveri, nisi contiguo et moto, motum qualis coepit, durare nisi sit quod impediat")。
しかし、ライプニッツは、事物のうちの凝集の原因(causa consistentiae, seu ...cohaesionis)については、ホッブズは明らかにしていないとして、同意しない。ホッブズは、凝集の唯一の原因を反作用(Reactio)だとしているが、そうすると、衝突なしの反作用もありうることになる。なぜなら、反作用は、物体を押すことの反対の運動であるからであるが、衝突はそれ自体の反対を生じないからである。しかし、反作用は、中心から周辺に向けての、物体の諸部分の運動である。この運動は、妨げられているか、妨げられていないかである。妨げられていないとすると、物体の諸部分は物体から分離していってしまうが、これは経験に反する。また、妨げられているとすると、反作用の運動は、何か外的な補助によって阻止されることになるが、それはホッブズの一般的原理からは帰結しない。
ライプニッツの指摘が妥当か、詳しくはホッブズの物体論を検討しなければならないが、ライプニッツの疑問は明確であろう。すなわち、衝突や凝集の問題において、インペトゥスやコナトゥスが、物体内部でどのように働いているのか、というのが十分理解できない、ということである。
ライプニッツは、コナトゥスが何らかの仕方で物体の凝集を説明するのに十分である、と考えるべきなのでしょう、と述べている。ホッブズに対する疑問の箇所について、自らの考察を示している。
「というのも、互いに押し合う(premo)物体は、コナトゥスにおいて互いに貫通しているからである。コナトゥスは端緒であり、貫通は結合である。ゆえに、端緒において結合がある(Quia quae se premunt sunt in conatu penetrationis. Conatus est initium, penetratio unio. Sunt ergo in initio unionis.)」(A II-1 92)
ライプニッツが、ホッブズからアイディアを得て、コナトゥスの貫通によって、物体の凝集や衝突の問題を解決しようとしたことが、ここに明らかである。そして先の続きで、次のように述べる。
「しかし物体が結合するとき、それらの限界あるいは表面は一つである。それらの表面が一つであるもの、あるいは"端が一つである(τὰ ἔσχατα ἕν)"ものは、アリストテレスの定義にしたがえば、単に接続的であるだけでなく連続的であり、一つの運動において可動な、真に一つの物体である」(ibid.)
そこで、ライプニッツは、あとは残されている仮説、「互いに押し合う物体は、コナトゥスにおいて互いに貫通している」を論証することであるとし、自分の推論を披露する。
ライプニッツはコナトゥスが端緒であり、したがって、それは物体が努力している場所における存在の端緒である、と推論する。何か別の物が存在している場所に存在するということは、その場所への貫通である。したがって、押す力(圧力・圧縮)は、貫通のコナトゥスである。
手紙の終わりでは、ホッブズは感覚を永続的な反作用として定義しているが、それに対する反論が述べられたりしている。物体の運動だけから人間がもつような感覚は説明できないとして、唯物論的なホッブズの観点を批判している。そして、「あらゆる動者は物体である(Omnis motor est corpus)」という命題をしばしば用いているが、ホッブズはそれを証明していないと指摘している。
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