labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

コナトゥス概念の転回――ホッブズからライプニッツへ

伊豆蔵好美「ホッブズと若き日のライプニッツ――十七世紀に「大陸合理論」の哲学は存在したのか?」『山本信の哲学 形而上学の可能性を求めて』所収、224-234頁。

形而上学の可能性を求めて----山本信の哲学

形而上学の可能性を求めて----山本信の哲学

ホッブズのコナトゥス概念を、若きライプニッツがどのように受容したのかについて、考察してある。

まず、ホッブズは『物体論』でコナトゥスを、「与えられるどんな空間や時間よりも小さな空間や時間ごとにおける運動」、すなわち「点ごとの、瞬間における運動」と定義する。こうしてホッブズは、コナトゥスを、外延量を持たない、無限小の運動として導入した。ホッブズ微積分を知らないが、思弁的推論によって、この力動的原理に到達した。それは、機械論的自然観の基礎をなす、「運動」一般の、要素的生成原理を求められたからである。

コナトゥス概念が、古典力学の形成に積極的な役割を果たすことは無かった。しかし哲学史的には、人間の認知的機能の機械論的・因果的説明として利用された点が重要である。つまり、感覚や情動の生成原理として、コナトゥスがある。こうして、身体内部にある微細でそれ自体として知覚できないコナトゥスは、情動的機能の説明で、「努力」や「傾向性」という日常語とつながる。

ホッブズのコナトゥスは、(1)物質的現象だけでなく、精神的現象の説明原理としても用いられることで、精神/物体のデカルト的二元論では解けない心身問題を回避し、一元的な自然・人間把握を可能にする概念として利用されている。また、コナトゥスは、(2)物体的運動の端緒でありながら外延量はもたないので、幾何学的延長を本質とするデカルト的物質概念には収まらない、力動的・潜勢的性格を有する概念である。

デカルト批判を意図するライプニッツが、このホッブズのコナトゥス概念に注目したのも、まさにこの二点にある。そこで伊豆蔵は、ライプニッツのコナトゥス概念の受容としてしばしば引き合いに出される、1670年のホッブズ宛書簡に続き、1671年の「抽象的運動論」を分析している。明らかに、ホッブズ『物体論』の運動論が、そこで展開される自然学の下地となっている。

とりわけ、ライプニッツはコナトゥス概念を利用して、「精神と物体との真の区別」を発見したとする点に注目している。伊豆蔵が引用している箇所を私なりにまとめよう。ライプニッツは、「物体は瞬間的精神、すなわち記憶を欠いた精神」とし、精神においてのみコナトゥスが瞬間を超えて持続する可能性、したがって時間を通じた物体の運動を可能性を認める(A VI, 2, 266)。

私なりの理解をまとめよう。物体そのものは瞬間的同一性しかもたない。時間を通じた同一な物体の運動を可能にしているのは、精神による記憶である。こうしてライプニッツは、個体化の原理、同一性の原理として、精神を認め、そのためにコナトゥスを媒介的に利用しているのである。

コナトゥス概念から、モナド概念に至るまでのステップには、力学における運動量と力の概念の区別や、「連続体の合成の迷宮」の解決、実体論と現象論の区別などがあるが、その過程で、ライプニッツは物体の実体性を構成する原理を、「精神」化していくことになる。そこで注目すべきは、ホッブズ唯物論的コナトゥス理論を、逆転したということである。

最後に伊豆蔵は大陸合理論×イギリス経験論として17世紀哲学を単純化してみる傾向を批判的に観ている。ライプニッツを大陸合理論の系譜に位置づけると、こうしたホッブズなどからの影響を見落としてしまいがちだからである。

伊豆蔵論文は、初期ライプニッツのコナトゥス概念の受容について、端的にまとまっていると思う。個人的には、本論文で扱われなかった、初期ライプニッツ以降のコナトゥス概念の変遷を丁寧に位置づける作業や、「思考=計算」テーゼ、「盲目的思惟」など、ホッブズからの他の思想的影響も包括的に論じた単著を期待したいところである。工作舎から2015年3月に刊行が予告されている『第II期ライプニッツ著作集』には、伊豆蔵氏がホッブズ宛書簡も邦訳されているので、ぜひ参照されたい。自分も、ベール宛書簡を、少しお手伝いしています(宣伝)。

http://www.kousakusha.co.jp/NEWS/leibniz2_1leaflet.pdf

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