labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツのメレオロジー

ヘルベルト・ブレガー「ライプニッツ哲学における全体と部分」(稲岡大志訳)

松田毅 編『部分と全体の哲学:歴史と現在』春秋社、2014年。

部分と全体の哲学: 歴史と現在

部分と全体の哲学: 歴史と現在

引き続き、ブレガー氏の論文を読んだ。要約は訳者付記が簡潔にして要を得ていると思うので、ぼくは読んだ雑感など。

ブレガー氏は、ライプニッツの数学・自然学の哲学、数学史が専門で、とりわけ連続体の問題に関して専門的な業績がある。無限や連続体の問題に関心があって、いくつかの国際カンファレンスに参加した2006年にお会いしたが、研究の相談にも親身になっていただいた。研究だけでなく人格をも含めて、ぼくが尊敬する研究者である。訳されているのは、日本に来られたときの講演発表原稿で、ぼくも聴いていた。

ブレガー氏は、部分と全体、すなわちメレオロジーの観点から見たライプニッツの哲学を、多岐に渡って、概略的に論じている。たぶん、必ずしもライプニッツの専門でない聴衆のために、ライプニッツの全体と部分の説を包括的に紹介する意図があったのだろう。あるいは、ここらでご自身の理解のsyntheseを試みられたのかもしれない。細かいテキスト読解や突っ込んだ論証にはなっていない。また、典拠を踏まえた論証がないので、専門外の方には確認がとれず、二次文献として用いづらいかもしれない(訳者が多少は典拠を補足してくれてはいる)。が、扱っている問題が大きいだけに、ライプニッツのメレオロジー的考察の射程を理解する手助けにはなろう。これだけ多岐に渡る領域における部分と全体のライプニッツ的理論を整理できるのも、ブレガー氏ならでは力技である。

本論稿では、部分と全体の理論の観点から、ライプニッツの連続体の理論を初めとして、それと他の諸理論(数学理論や知識論、普遍記号論、物理学、生命論など)との関係にまで考察が及んでいる。とりわけ興味深いのは、『弁神論』における連続体論の位置づけの問題が示唆されている点である。ライプニッツは、連続体についての自説を、『弁神論』に含めなかったが、無限や全体などは、明らかに、神と、神の創造した世界との関係に関わってくる問題圏である。神学的領域における連続体の理論がどのようになっているのかは、気になるところであり、教えてもらうところが多かった。『弁神論』では、連続体の合成の迷宮が大きく扱われていないので、これまであまりまともに取り組んだことがなかったが、やはり考えねばならないところであろう。

創造の観点から観れば、神が部分である無限のモナドを創造したのであるから、物体もまた「現実的に無限に分割されている」。数学的には、ライプニッツは実無限大を矛盾概念として拒否するのだが、物体世界が問題になる形而上学的には、現実的無限個の物体的部分が存在すること、現実的無限個のモナドが存在することを、認めている。

しかし、ブレガー氏が指摘するように、ライプニッツは物体や連続体の位置づけについて、必ずしも一貫しているわけではない。また、ブレガー氏は触れていないが、物体もまた「現実的に無限に分割されている」と言う際、ライプニッツは、しばしば物体のうちに物体が無限に含まれている、という、アナクサゴラス的な「宇宙のなかに宇宙が無限にある」という考えとして捉えている文脈もある。つまり、単に数学的ないし観念的に無限分割可能であるだけでなく(デカルト的無際限)、事象的にも無限分割可能である、という意味で用いている。そもそも、創造されたモナドの個数が無限であることに関しては、分割とかが問題にならないので、「現実的に無限に分割されている」というのは、誤解を招く、あまりよくない表現であった、とわたしは思う。モナドの現実的無限個を認めながら、数学的実無限を認めないというのは、ライプニッツにおいて整合的なのか、疑問である。


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