labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

村上勝三『知の存在と創造性』読書メモ(1)

村上先生から先日、出版されたばかりの新著、『知の存在と創造性』をご恵投いただきました。記して感謝申し上げます。目次は知泉書館のホームページにあります。

知の存在と創造性

知の存在と創造性

何より、「第II部 知性と存在」におけるライプニッツデカルトの比較がとても気になったので、まずはそこから読みはじめた。第二部の目次は、次の通り。

第II部 知性と存在
序論 二つの形而上学と二つの方法
第一章 ライプニッツデカルトの距離
 第一節 ピエール-シルヴァン・レジス(1632-1707)による哲学史
 第二節 ライプニッツデカルト評価
 第三節 第三世代のライプニッツ
 第四節 デカルト哲学とライプニッツ哲学の対立点
第二章 コナトゥスからモナド
 第一節「コナトゥス」論の出発点
 第二節「コナトゥス」と「広がり」
 第三節「調和」と身心の区別
 第四節「実体」,「力」,「モナド
第三章 「省察」と「論証」
 第一節 デカルトの「方法」に対するライプニッツの批判
 第二節 幾何学的な記述の仕方
 第三節 マテーシスの広汎性
 第四節 方法としてのマテーシスによる諸学の成立
第四章 コギトの形而上学モナド形而上学
 第一節 諸学の樹状的構成
 第二節 数学と物理学の関係
 第三節 知ることの存在論

ライプニッツデカルト。「この両哲学の差異の根源は、〈知る〉ということから〈在る〉の確実な把握へと向かうデカルト形而上学と、〈在る〉の構造として〈知る〉を確実に論証しようとするライプニッツ形而上学という点にある」93頁。

村上は、この二つの哲学の「折り合いのなさ」を精確に見極めようとする。それは、宇宙論的眺望と自我論的眺望の折り合いのなさでもある。両者の形而上学における方法の違いは、デカルトの「省察」、そしてライプニッツの「論証」という対比で見極められる。

第II部第一章「ライプニッツデカルトの距離」から読んでいこう。

第二節では、ライプニッツデカルト評価が、ライプニッツ自身によるデカルト批判の文書の分析とともに扱われている。ライプニッツによれば、デカルトは「真なる哲学の控えの間vestibulum Philosophiae verae」に留まっている。その評価を、村上は次のようにまとめる。すなわち、第一に、デカルトの「方法」に関する評価。第二に、デカルトが物質についての論証されていない教説に基づいて形而上学を立てたということ。

デカルトの死後50年の時代では、スコラ哲学はもはや侮蔑の対象ではなく、現代哲学のすぐれているところは自然科学に基づくところにおいて捉えられている。デカルトを第一世代、マルブランシュとスピノザを第二世代とすれば、レジスやライプニッツは第三世代である。(ライプニッツデカルト派らの新哲学とアリストテレスの実体形相論をバランスよく考察しえたのも、こうした世代間距離によるのだろう。)村上は、第三世代の特徴として、存在論への傾斜にも注目している。

レジスは古代・中世の哲学を凌駕する現代哲学の特徴に、(1)推論の仕方、(2)知識の広がり、(3)真理を見いだすために必要な補助手段を挙げたが、ライプニッツデカルト批判には、それらに対応して、(1')明証性批判、(2')個別性の重視、(3')自然現象を解明するための道具の重要性、という特徴を見いだすことができよう。

第四節では、デカルト哲学とライプニッツ哲学の相違点が列挙される。

       デカルト     ライプニッツ
実体形相     ×         ○ 
物体的実体    ○         ×
真理規準    明証性       証明
始原      コギト    コギト+res cogitata
自然現象   目的因排除  作用因と目的因の両立
心身関係   心身二元論     予定調和
神      神の知=意志   神も理由律に従う
行為規範  人間的意志の自由   仮説的必然
無限    形而上学的無限  数学的無限小・無限大
物理学の基礎  広がり=延長      力

などなど。改めて、デカルト哲学とライプニッツ哲学のどうしても折り合いのつかない点とは何なのか、と村上は問う。