思考の認知哲学とは何か
太田紘史「序論 思考の認知哲学」(『シリーズ新・心の哲学� 認知篇』pp.1-28)をざっと読んだので、そのただのメモ。
- 作者: 信原幸弘,太田紘史
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2014/05/14
- メディア: 単行本
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哲学と認知科学のインターフェースとしての「認知哲学」。序論では、「思考」がこれまでどのように扱われてきたかを振り返りつつ、認知哲学の展開を概説している。
1. 思考の構造
まず、思考の本性ないし人間の認知をある種の計算プロセスとして見る計算主義。これは、「思考の言語」(LOT)仮説という、心的表象を操作する規則と文法規則との類比の想定に基づく。この仮説は「原子論的」である。つまり、思考が概念という要素によって形成されているとする、「概念原子論」に立つ。*1
このLOT仮説に対して①概念役割意味論、②プロトタイプ説、実例説、理論説、③コネクショニズムといった対抗案がとられた。
①は概念が単独では意味をもたず、他の概念との相互作用のなかで意味をもつとする説。②は、認知心理学におけるカテゴリー化の研究から生まれた諸説。カテゴリー表象は認知心理学における概念の対応物としての自然な候補で、このカテゴリー表象のさらなる分析によってそれぞれの説が分かれる。③は人工知能研究に発する立場で、神経伝達の仕組みを人工ニューラルネットワークとしてシミュレートしたもの。①②③は、いずれも原子論的な概念のような構成要素を想定していない。
フォーダーは思考の合成性の観点からLOT仮説したがって概念原子論を擁護しており、この問題はいまだ議論の渦中とのことである。
思考はそもそも言語に依存するのか。この問題に対し、フォーダーのLOT仮説は、「思考は言語に依存しない」とする。つまり概念の適用は言語に依存しない。思考に特有の統語論的構造があり、それは言語の文法規則に依存していない。他方で「思考は言語に依存する」という見方もある。この見方によれば、思考は内化された言語であり(内語仮説)、言語の構造はわれわれの思考の構造にも直接的に反映されることになる。最近は人間の思考の言語相対性を示す研究もある。
2 思考と合理性
思考には信念と欲求があり、その組み合わせによって、われわれは行為へと導かれる。思考-信念-欲求が適切に連関しているとき、それらは「理由」reasonの関係に立つ。行為を含まずとも理由は成立し、その典型は「推論」reasoningである。理由に適ったしかたで行為が結果したり信念が形成されたりするとき、「合理的」rationalであると言われる。
行為や推論におけるこうした理由関係は、因果関係であるようにも思われる。しかし、「解釈主義」によれば、脳内に思考の対応物があるかどうかは問題ではない。思考とは帰属されることを本質としている。したがって、他者のある行動を説明するには、ある信念と欲求を帰属させて、その行動を解釈できればよい。このように思考が帰属される場合、人間の思考の合理性が前提となっている。
しかし、心理学は人間思考がしばしば不合理であることを明らかにしてきた。では、解釈主義は不合理をどのように説明できるのだろか。一つの方針は、思考が不合理な場合、どのような信念や推論を帰属してよいのか何も確定的なことは言えないというもの(デネット)。しかし、たとえば四色カード問題にみるように、不合理な推論が安定したパターンをもっているので、何らかの推論を帰属するのが自然。もう一つの方針は、不合理性の発生を局所的だとみなすもの。これは人間の信念は全体として整合的だが、ボロがところどころある、それでも最大限合理的な信念体系だとするもので、思考の不合理性の支持者にとっても許容可能な立場と言える。
3. 思考についての思考
他者理解=他者の思考についての思考、これをどう理解するか。「理論説」によれば、われわれは他者理解において暗黙的理論を前提している。「素朴心理学」や「心の理論」がこうした暗黙的理論である。他者に思考を帰属する理論は、学習によってよりも、発達的に身につけたものである。
他方で「シミュレーション説」によれば、他者理解は理論によるのではなく、むしろ、自分ならどう考えるかという想像に類する働きである。自身がもつ思考システムを、自己を切り離してそこに他者を入れてシミュレートする。理論説が、他者理解をある種の理論的推論とみなすのに対し、シミュレーション説は他者理解をある種の技能とみなす。最近のミラーニューロン説は、シミュレーション説を支持するかもしれない。
自己の思考についての思考、これについてもわれわれは特別な立場にある。というのも、われわれは自己の思考について直接的に知ることができるように思われるからだ。他者の思考と比べ、アクセスがはるかに直接的であるし、可謬性もほとんどない。無意識的な思考を例外とすれば、意識的な思考は直接的だし間違えることはほとんどない。
では、この自己知の特殊性を支えるメカニズムは何か。一つは面識(見知りacquaintance)である。そこでは、認識の対象=認識そのものの構成要素である。もう一つの可能性は内部知覚inner perception、あるいは内観である。
こうした見方に対して、自己知も他者知の一種という見方が提案されている。それによれば、われわれは、進化の過程で獲得した他者理解の能力を、自己に向けているだけである。こうすると、他者知は自己知と同じくらい直接的で不可謬であるということになるが、自己知の特殊性はどのように説明されるだろうか。
以上までが、まとめ。全体のイントロ的概説としてとても良くまとまっている。最後の自己知も他者知の一種、というところは、他者を認識し模倣を司るミラーニューロンが、自己に適用された結果だという脳科学的説明があることを知っていたので、そうなんだろうな、という印象である。こうした還元に対して、後の章で(?)どのように自己知の特殊性が擁護されるのか、見所である。
一つ気になった点は、わりと「・・・かもしれない」という記述が多かったこと。はっきりしたことがまだ科学的にわかっていない、推測段階だということだろうか。あるいは確率・統計的な蓋然性だろうか。あるいは単に著者の推量なのだろうか。そこら辺ははっきりしてほしかった。
もう一つ気になるのは、心理学の「カテゴリー表象」を「概念」の対応物としてみなせるか、という論点。これは概念の多義性を最初に処理しておかないと、ややこしくなるだけだろう。そもそも「概念」って何なのでしょうね。これは後章をみればもう少しわかってくるのかもしれない。
空間知覚とか連続体などの幾何学的概念、それから概念形成や抽象化などがどのように認知哲学で説明されているのか、というのが、数理哲学的なぼくの関心。