labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

モンテーニュの懐疑主義が近代にもたらした遺産

ジャンニ・パガニーニモンテーニュと近代懐疑主義山上浩嗣 訳『思想』2015年第10号, pp. 7-24.

 本論において、パガニーニモンテーニュ懐疑主義が近代にもたらした遺産を、以下の5つの節に分けて分析している。それぞれの要点を述べると、以下のようになろう。

1. モンテーニュ懐疑主義によって、「見かけ」と「現実」の二元論に基づき、人は見かけしか知ることが出来ないという、近代的な現象主義の系譜の基盤が確立した。

 アンリ・エティエンヌはセクストス・エンペイリコスの『ピュロン主義哲学の概要』を羅訳し、懐疑主義を近世に復活させた。その際、ギリシア語phenomena(現象・現われ)を、apparentiaというラテン語で訳した。モンテーニュはこれをapparence(見かけ)とフランス語で訳し、それを「表象」(fantaisie=phantasia)と同義とする。そして、ピュロン懐疑主義を近代的な「現象主義」に仕立て上げる。それは、(a)人は現実の「見かけ」しか知ることが出来ないということ、および(b)「見かけ」と「現実」との二元論を基盤とするものであった。

2. モンテーニュ懐疑主義によって近代的な「主体」が開かれるという継起が認められる。しかしそれはデカルト的自我には至らない限定的なものである。

 モンテーニュは、セクストスと同様に、「表象」を「感覚によって知覚可能な現象」という意味に解し、精神の主観的状態に関する研究への道を開く。彼は、アリストテレスの質料/形相に基づく霊魂論を棄却し、現実/見かけの二項に置き換える。そしてspecies(形象)を可知的・可感的の区別を問わず一括してfantaisies(表象)に置き換え、主体のあらゆる状態を、現象あるいは見かけという同じひとつのカテゴリーに組み込む。

 モンテーニュはまた、アリストテレスの「正常」という規範に疑義を呈する。「われわれは病気を逃れていられることなど決してない」。この文が意味しているのは、対象の知覚とは主観的状況であり、その状況は主体の状態によって決定されているのであって、対象の現実とは関係がない、というものである。われわれは「正常な」認識すなわち対象の現実に関する客観的把握などというものはもちえない。むしろわれわれは、対象ではなく、主体(精神の状態)に起因する見かけによって判断している、ということである。

 モンテーニュはさらに、ストア派の「把握可能な表象」の理論も放棄する。把握可能な表象と虚偽の表象を区別する指標を見いだせないからである。ただし、モンテーニュの懐疑は、外的事物の存在を疑うところまでいっているとはいえ、全世界の事物全体にまで向けられず個別の事例に関わるにすぎないもので、デカルトの普遍的懐疑にまでは至らないものである。

3. モンテーニュ懐疑主義を、「疑う哲学」へと狭めてしまった。

 しかしこうすることで、モンテーニュ懐疑主義を「疑う哲学」へと狭めてしまった。古代懐疑主義には合意の中断すなわちエポケーから生じる精神の平穏すなわちアタラクシアという目標があった。しかし、モンテーニュは、エポケーではなく疑いを懐疑主義的探求の最終目標としてしまった。モンテーニュ懐疑主義を、ソクラテス的な無知(私は知らない)と、疑いという行為(私は疑う)との二つだけに還元してしまった。これらは、真の判断中止とは異なる精神状態を表しており、ピュロン主義の伝統をねじ曲げてしまうものである。

4. モンテーニュは、自己の実践的描写を徹底するが、主体の哲学的理論を欠く。

 モンテーニュにおいては、主体の哲学理論が不在である。モンテーニュは、しばしば近代的主体の父祖とされるが、彼は主体(自己)の実践を示したに過ぎず、主体に関する純粋な哲学理論はデカルトの「コギト」に至る探求において生じる。モンテーニュは、主体や精神を中心的な主題として描いているわけではなく、あくまでも「ふらふらしていて、危険で、無謀な道具」としての「自己の描写」を徹底しているにすぎない。パガニーニはさらに、モンテーニュ懐疑主義哲学に自然主義を読み込み、ヒューム的な主体=「知覚の束」とさほど隔たっていないとする。

5. モンテーニュには、懐疑主義に固有の自己言及的性格が見られる。それは、確実な知には決して安住しない、たえざる探求と無知の告白の理論である。

 『エセー』には懐疑主義に固有の自己言及的性格、すなわち、「自己を知る無知」というアウグスティヌス的主題、「無知の知」というソクラテス的主題、そして「おのれをも揺るがす極端な疑い」というピュロン的主題が見られる。ここには、根本的懐疑から生じるデカルト的な「考える私」という「第二省察」の状況との類似がある。
 しかし、モンテーニュは、デカルトのように「考える私」という自我の存在の確実さの断定的な主張には至らない。モンテーニュは、「わたしは何を知るのか」Que-sais-je?の精神に従って、ピュロン主義者の「たえざる無知の告白」を、はてしない探求の姿勢と解釈した。「完全なる無知」に達するためには、「無知についても無知でなければならない」。
 このようにモンテーニュ懐疑主義とは、たえざる探求と無知の告白の理論なのである。