labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

アカデミーと学術雑誌の形成と文芸共和国の誕生──『世界哲学史5』「ポスト・デカルトの科学論と方法論」への補論[2]

  • この原稿は、「ポスト・デカルトの科学論と方法論」『世界哲学史5』(ちくま新書、2020年)の準備として書いたものです。巻末の年表に少し反映しました。これも、あくまで整理のために書いたものなので、ざっくりとしてますが、ご容赦ください。
世界哲学史5 (ちくま新書)

世界哲学史5 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/05/08
  • メディア: 新書
 

 

アカデミーと学術雑誌の形成と文芸共和国の誕生

                池田真治

 

この時代の科学論と方法論を知る上で、17世紀後半に近代国家によって設立された学術協会や科学アカデミー、および学術雑誌によって形成された「文芸共和国」(République des Lettres)という文脈は無視できない。

すでに17世紀初頭には、イタリアはローマにアカデミア・デイ・リンチェイが創設され、ガリレオらがこれに加わった。1666年にはコルベールの主導のもと、ルイ14世によりパリ王立諸学アカデミー(後のフランス学士院)がパリのルーヴル図書館内に設立された。その初の外国人会員としてホイヘンスが選ばれ、ライプニッツも後に名を連ねている。アカデミー会員の学術的成果は、1665年創刊の世界初の学術雑誌である『知識人の雑誌』(Journal des Scavans)に掲載された。

また、1660年にはロンドンに英国王立協会が設立される。そこでは定期的な会合があり、実験の発表と同時に再現実験も行われ、公的な検証がなされた。そこでの科学的発見や成果は、王立協会秘書のオルデンバーグが編集者となって1665年に創刊した『哲学紀要』(Philosophical Transactions)に公表された。ボイルやフック、ニュートンらは、こうした場で実績を積みあげ、名声を築いたのである。

他方で、三段論法を確実な推論の軸とし、原理を重視するアリストテレス以来の伝統的な知識観も残存しており、実験的手法に対する批判もないわけではなかった。とりわけホッブズは原理的考察と理性的推論を重視し、実験的方法で知識を獲得できるとみなすボイルらを批判し、真空の存在に対しても懐疑的であった(シェイピン、シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ』参照)。ホッブズは王立協会に所属する数学者ウォリスとも、方法論や数学理論とりわけ無限小の概念をめぐって論争した(アレクサンダー『無限小』参照)。このようにホッブズは王立協会に多くの論敵がいたが、その政治的・宗教的立場も危険視され、決して王立協会のフェローになることはなく、協会から排除されている。

スピノザはこうした学術共同体に所属したり学術雑誌媒体に出版したりせず、自らのサークル・メンバーの庇護と援助のもと、地下出版によって思想を広めていった点で興味深い。他方でライプニッツは、1682年、ライプツィヒにてオットー・メンケを編集者とする『学術紀要』(Acta Eruditorum)の創刊に主体的に関わっている。また1700年にはベルリンに諸学協会(後のベルリン科学アカデミー)の設立を主導し、自ら初代会長となっている。

これらの学術共同体は、純粋に学術を探求する文芸共和国としてオープンな側面もあったが、国民国家の黎明期でナショナリズムが芽生える当時にあっては、国家間競争を反映する場ともなり、政治的・宗教的・民族的理由による排他的側面もあったことは否めない。ニュートンライプニッツ微積分の発明をめぐり争ったように、先取権論争も盛んとなる。しかし、学術的な協会と雑誌という新たな場所と媒体の登場は、それまでの伝統的な学問様式を変革し、知識のより公共的かつ客観的な構成を可能にしたと言えよう。その点では、公的な扱いを受け、そうした学術雑誌にも出版された往復書簡の意義も大きい。