村上勝三『知の存在と創造性』読書メモ(2)「コナトゥスからモナドへ」(前半部)
不勉強で、だいぶ期間があいてしまったが、引き続き、村上勝三『知の存在と創造性』を読み進めていきたい。
長くなりそうなので、第二章「コナトゥスからモナドへ」から、まず前半部である第1・2節について、簡単な内容紹介と、読んだ感想を述べていきたい。
図形を描く幾何学的想像力が哲学においても重要な位置づけを占めるデカルトと、代数操作に見られる記号を用いた盲目的思惟が哲学において重要な位置づけを占めるライプニッツ。これは、フランスの哲学史家、ベラヴァルによって、明確に打ち出された図式である。
この図式に対して、村上は、デカルトの「幾何学主義」において、思い(思惟)と広がり(延長)を結合するものが「想像力」に見出されたのに対し、ライプニッツの「代数主義」が、体系全体へと及ぶことを可能にしたのは、「コナトゥス」という概念が鍵にあったからである、と整理する。
若きライプニッツは、ホッブズの「コナトゥス」概念に影響を受けながらも、唯物論的なホッブズとは異なり、コナトゥスを精神的なもの(あるいはより正確には、精神的領域と物理学的領域をつなぐもの)としてみずからの自然学に導入した*1。このことは、初期ライプニッツの自然哲学に関する研究のなかで明らかになってきたものであるが、村上は原典を踏まえてホッブズのコナトゥス概念と、ライプニッツにおけるその発展的受容とを、独自に分析している。
ホッブズのコナトゥスは、「与えられるよりもいっそう小さな空間と時間を通しての運動である」、「言い換えれば、点と瞬間をとしての運動である」。コナトゥスそのものは、量をもたず、分割不可能なものとされる。そこで、コナトゥスの速さないし量として、「インペトゥス」(駆動力)が新たに定義される(インペトゥスそのものは、投射された被投射体が運動を続けることのできる原因とされた、中世の伝統的な概念である)。このインペトゥスの多数化として「力」がある。村上はここに、幾何学の代数化、したがって微積分学へと向かう方向が読み取れるとする。
では、ライプニッツは、このホッブズの「コナトゥス」概念をどのように受容し、発展的に改変したのか。
ライプニッツは、運動の原因として、コナトゥスがあることに同意する。ライプニッツにとって、「コナトゥスは運動の始まり」である。これらコナトゥスの相互浸透が、物体の凝集を説明する。すなわち、諸物体が衝突したり合一したりすることの説明を可能にするものとして、ライプニッツは、コナトゥス概念を用いるのである*2。
しかし、コナトゥスはいかにして「広がり」を取り込んで、物体の運動を説明できるのであろうか。これには、デカルトとライプニッツのあいだに、物体観の違いがある。これには「個体化」の問題、すなわち、何が物体(や実体)に同一性をもたらしているのか、という問題が、深く関わっている。
デカルトは、物体を、その本性を広がりとする実体として規定したが、物体の個体化は、広がりに即してなされるのではなく、知性の側の把握に即してなされる、と村上は指摘する。対して、ライプニッツは、物体の本性は広がりによってのみ定まるものではなく、「不可侵入性」すなわち「抵抗」が考慮されねばならない、とする。「不可侵入性」は、物体の「一つ」としてのまとまりから帰結するものであるが、この、物体を「一つ」にまとめている理由として、「コナトゥス」がある。
ライプニッツにおいては、コナトゥス決して破壊されないが、合成可能なものとしてあり、コナトゥスの合成が運動である。そして、ホッブズと異なり、コナトゥスそのものも量をもつ。したがって「コナトゥス」と「駆動力」も、区別されていない。
ライプニッツは、コナトゥスの合成が運動である、とした。この、若きライプニッツのコナトゥス概念は、やがて、1678年の『物体の恊働について』において、「運動の無限小解析の要素」(フィシャン)となるものである。コナトゥスは「一つ」であるが、それによって運動が合成されるような何かである。
ここで、「ホッブズがコナトゥスを分割不可能としていたのに、ライプニッツがコナトゥスを分割不可能であるとしてはいなかった」(119頁)と村上は主張する。すなわち、コナトゥスは、極小のコナトゥスへと向かう、段階的な系列のどこかで「一つ」であるが、固定した「一つ」としてあるのではなく、分割を否定していない。こうすることで、「広がり」をコナトゥスに取り込んだことが、無限小計算の確立へとつながっていることを、村上は示唆している。
さて、この村上解釈でもっとも気になるのは、「ホッブズがコナトゥスを分割不可能としていたのに、ライプニッツがコナトゥスを分割不可能であるとしてはいなかった」(119頁ほか)と主張している箇所である*3。というのも、ライプニッツは、1671年の「抽象的運動論」では、「コナトゥス」を、運動の不可分な非延長的部分で、運動の端緒あるいは終端、媒体である、としているからである。そうだとすれば、ホッブズ宛書簡と「抽象的運動論」のあいだには、何らかの立場の変更なり考えに矛盾があるのではないか。
したがって、ホッブズ宛書簡でのコナトゥス概念を、ライプニッツの「抽象的運動論」(1671)でのコナトゥス概念と比較すると、面白いように思われる。ライプニッツはそこで、物体的粒子がもつ不可侵入性を、物体の内的運動である渦動にみているが、その内的運動の要素がコナトゥスである。そして、コナトゥスを「不可分者」とし、「瞬間的精神」と結びつけている。すなわち、物体の運動の起源や個体化を、不可分な精神に求めている。
村上が、その前半部で示唆しているもっとも興味深い点は、なんといっても、「コナトゥス」概念と「無限小」概念のつながりである。コナトゥス概念は、運動論の基礎づけと、微積分学(無限小解析)とのつながりを考えさせるものである。初期ライプニッツにおける無限小概念に基づく微積分学の確立は、初期の自然哲学におけるコナトゥスの導入と、連続したものして分析されねばならない。「コナトゥス」への注目が、それを可能にするのではないだろうか。
(「コナトゥスからモナドへ」(後半部)につづく)