labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§7


BoutrouxおよびLattaの注解は、100年以上も前のものですが、どちらもとても充実しているようなので、それらも含めるかどうか、悩んでいました。少しパラパラ読んでみると、どうやら、河野与一の注解は、ほとんどBoutrouxとLattaを踏まえたもののようです。実際、この節の注解を見ると、英語をラテン語に置き直しているところがありますが、ほぼLattaのものと一致します。そのLattaの注解はBoutrouxを大いに参照したものです。河野自身、「大部分ブトルー及びラタに負うものである」と、「まへがき」に述べています。

そこで、今後の方針としては、河野が総合してくれているものとして、以降も河野与一の注解ということで進めていこうと思いますが、余裕があれば、Boutroux, Lattaも確認していければと思います。


1. 原文

いかにしてあるモナドが、他の何らかの創造物によって、その内部において変向ないし変化させられうるのかについて、説明する方法もまたない。というのも、われわれは、モナドの内に何も移し換えることができないし、また、その内に駆り立てられ、導かれ、増大ないし減少されるような、いかなる内在的運動も認識することもできないからである。そのようなことは、諸部分のあいだに変化が存在する複合体において可能なことである。モナドには、何らかの事物がそこに出入りできるような窓はない。付帯性は、スコラ学者たちの感性的形象がかつてそうであったようには、実体の外へと離れたり歩き回ったりすることができないものである。こうして、実体も付帯性も、あるモナドの内に外から入ることはできない。

Il n'y a pas moïen aussi d'expliquer comment une Monade puisse être alterée, ou changée dans son intérieur par quelque autre créature ; puisqu'on n'y sçcauroit rien transposer, ni concevoir en elle aucun mouvement interne qui puisse être excité, dirigé augmenté ou diminué là-dedans ; comme cela se peut dans les composés, où il y a du changement entre les parties. les Monades n'ont point de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse entrer ou sortir. Les accidens ne sçauroient se détacher, ni se promener hors des substances, comme faisoient autresfois les espèces sensibles des scholastiques. Ainsi, ni substance, ni accident peut entrer de dehors dans une Monades.


2. 注目

・「モナドに窓はない」とした、有名な箇所。
・「実体」と「付帯性(偶有)」というアリストテレス以来の形而上学や、「感性的形象」など、スコラ哲学の知識が前提されている。モナドの無窓性(M. §7)の主張には、スコラの感性的形象の受容の否定、言い換えると、伝統的な感覚理論や経験的な知覚理論の否定がある(cf. DM. §26)。
・「付帯性」とは、自体的(per se)な存在者である実体に対し、その存在を他に依存するという意味で付帯的ないし偶有的(per accidens)な性質のことを指す。
・「感性的形象」とは、感覚器官に生じるとされる、感覚された対象の非物質的な表現のこと。詳しくは、「7. 補足」の項を参照せよ。


3. 解釈
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4. 比較参照

* NE. 「魂は窓を持つか?」という問題について。魂を持つと考えるものたちは、物体的なものとして魂を捉えてしまっている。感覚に由来しないものは魂の内にない、という、スコラの哲学的公理がある。しかし、ライプニッツは、魂それ自体および魂の状態については、例外と考えるべきだとする。こうしてライプニッツは、スコラの哲学的公理に、次のように付け足す。「感覚器官のうちになかったものは知性の内にはない、ただし知性そのものを除いて」(Nihil est in intellectu quod non fuerit in sensu, excipe: nisi ipse intellectus)。
* SN. §14. 神の全能によることを除いて、何かを受け取ることは魂には不可能。・・・神が魂および他の実在的一性を創造したのであり、それ自体に関するある完全な自発性によって、そして自発性を持たない事物たちとのある完全な適合によって、そのうちにある、あらゆるものがそれ自体の本性から生じなければならない。
* DM, §13. 個体的実体の概念はそれ自体に起こりうるあらゆることがらを含む。したがって、この概念を考察すれば、人はその個体に関して真に述べられることすべてを見ることができる。円の本性のうちにそこから導きだされうるあらゆる性質をわれわれが見ることができるように。・・・
* DM, §26. われわれの精神の中へ、外から自然的な仕方で入ってくるものは何も無い。あたかも、われわれの精神が何らかの情報をもたらす形象を受容し、そのための戸や窓を持っているかのようにわれわれが考えるのは、悪しき習慣である。
* G II, 76; Arnauld [1686]. 実体の一性は、完全に不可分で自然的に壊滅不可能な存在者を要求する。というのも、その概念はその実体に起こりうるあらゆる事柄を含むからである。


5. レッシャーのコメンタリー

* スペキエス(形象/種)は、類(kind)ではなく、事物のある類を別の類から区別するような、特徴的な性質(property)ないし質的な特徴のことである。
* スコラ哲学者の「感性的形象」は、物質的性質の像ないし非物質的な表現のことである。それは、観察行為において、【物質的性質が】感覚器官(センソリウム)のうちに入ってくるために、それらの所有者を背後に置いておくことのできるものである。
* ライプニッツは、そのような知覚の処理についてのいかなる理論も拒否する。というのも、モナドは物質的事物ではないので、いかなるものも物理的なインパクトをそれらに与えることはできないからである。
* モナドは完全に不浸透(impervious)なものである。それらは他の行為者を通じてのいかなる因果的衝突も認めない。さらに、いかなる理念的(ideational)な非物理的な外的衝突、あるいは、インペトゥスの観念もまた、知解可能なものではない。
* いかなるものも外部からモナドに影響することはできない。すなわち、モナドは窓を持たない。
* モナドの内的な本性(それらの定義する思念あるいは完全個体概念)は、それらについてのすべてのことを固定する。モナドの変化は、内的なプログラミングの結果であり、外的因果的インペトゥスの結果ではない。(後の§11が主張するように、すべてのモナド的変化は、「内部から」内的に生成される。)
* 因果的操作のもとに服従する実体をとるような他の任意の理論は、ライプニッツが見るように、実体の自己充足性と不具合を生じる。
* しかし、モナドが因果的な仕方で互いに作用できない一方で、それらの内的状態は、因果的ではないにしても観念的なしかたで総合に調整を与える、調整ないし同調によって整列することができる(§51, 81)。モナドは、因果的に独立しているが、完全に独立しているわけではない。というのも、影響ではなく整列を通じた相互的調整があるためである。
* ここでライプニッツが次のように推論していることに注意しよう。
「いかにしてXがそのようでありうるのかを説明する仕方はない。したがってXは現実的にそのようではありえない」
観念に対するこの関与に、「実在的なものは理性的でなければならない」という、ライプニッツを「合理主義的」哲学者とする徴がある。


6. フィシャンの注解

* 「感性的形象」あるいは「志向的形象」とは、諸事物が感覚に送る、ある実在的な性質のことで、送り手の対象から分離されてその対象を表現する力を持つところのものである。
* フィシャンはデカルトの『屈折光学』から引用しつつ、光学が、スコラ哲学者のとる説である、空気によって?飛び回っている感性的形象(あるいは志向的形象)の説を排除したとする。



7. 補足

Spruit(2011)によると、中世における形象と感性・知性の関係は、おおよそ以下のようなものである。
感性的対象から、外的刺激(感性的形象)を受けて、感覚器官において、感覚知覚が生じる。その感覚知覚は、感覚器官や外的感覚から受け取った情報を組織し変質することのできる、内的感覚(ないし共通感覚ないし想像力)における、感覚的表象(感覚像:ファンタスマタ)を生じることに存する。
 次に、人間の魂の能動的側面(知性作用)は、抽象によって、感覚的表象から、知性的形象を導きだす。知性的形象は精神によって受け取られ、精神に、ある個別的で単純な作用によって、「何かあるものquidditas」が知性的形象に付随していることを指し示す。
 感性的形象は、感性的対象と感覚器官のあいだのリンクである。他方で知性的形象は、受容的・解釈独立な作用と、判断や反省・論証的思考・三段論法などのより特殊な認知プロセスとのあいだを橋渡しする。

Spruitの説明を図式化すると、以下のような感じになる。

1. 感性的対象 sensible objects
      ↓
2. 感性的形象(外的刺激) sensible species (external stimuli)
      ↓
3. 感覚器官における感覚知覚 sense perception in sense organs
      ↓
4. 共通感覚における感覚的表象(ファンタスマタ) sense representation(phantasmata) in common sense (imagination)
      ↓
5. 知性による抽象 abstraction by the intellect (human soul)
      ↓
6. 精神によって受け取られた知性的形象 intelligible species received by the mind
      ↓
7. 精神における判断や反省・推論の行為act of judgement, reflection or reasoning in mind


8. 河野与一の注解

* 「変質される」être altéréとは、本質を変じて何か他のものにされるという意味。
* ライプニッツは、物体の中に起こるすべての変化を、部分の移動に帰している。これは結局、運動の量および方向の変化に帰するということがここに前提にされている、と河野は読み解く。【ライプニッツにおいて、物体の運動の現象的側面は、機械論的にすべて説明がつけられる、としていた。】
* 「窓」は有名な言葉になっていてかなり詩的な連想を伴うが、初めに使ったところでは「戸口や窓」というごく普通の言い方をしていた(『叙説』§26, NE, G V, 100)。
* 「感性的形象」les espèces sensibles ライプニッツは、ここで一部分聖トマスの説、一部分デモクリトスに基づくスコラ派の説をとっている。トマスにしたがえば、物自体は神にしか認識できない。人間の精神は物の付随性accidensを感性的形象すなわち特殊的形象によって認識し、物の本質essentiaを悟性的形象すなわち普遍的形象species intelligibiles sive generalesによって認識する。トマスの言う感性的形象は、物体の内に存する付随的形相を表現している非物質的なもので、その形相からは慣れていてしかもそれとある点では一致しているもの。この説の目的は、精神と外界の事象との関係を説明すると同時に、悟性は自分に内在する原理に決定されて始めて物を認識し得るという法則を認めて行こうとするところに存する。・・・[ボナウェントラ、スコトゥスの説]・・・。ライプニッツがここで考えている説では、感覚知覚というものは知覚された物体から微粒子が飛び出して知覚する者の中に入りその中で構成されて知覚された物体の内に在る性質の形象もしくは表現になるという。この種類の形象を、デモクリトスはエイドラeidoraと呼んだ。原子論者は物体が精神に及ぼす作用を一種の物理的流入influxus physicusによって説明しなければならないと考えていたのである。この思想に反対な意見は、デカルトの『屈折光学』第一論文にも見られる。
* 河野はl'accidentを「附随性」と訳す。アリストテレスでは、「本質」(或るものがその或るものたる為になくてはならないもの)に対し、「なくてもいいものではあるが本質に伴って存するもの」の意味で使われている。


9. 工作舎ライプニッツ著作集

* 物体は現象だが、その構成要素たる単純実体に根ざしており、その限りで、「良く基礎付けられた現象」として実在性を持つ。ここに力学の適用される領域がある。
* 前半は、モナドの完足性についての説明で、§50以下でさらに詳しく論じられる。
* 「窓」について、モナドは他のすべてのモナド、あるいは宇宙を映す「宇宙の生きた鏡」であるとしているところを引き合いに出す。モナドは宇宙を映す「宇宙の生きた鏡」である以上、いまさら何かが出入りして、モナドに影響を与える必要もなければ、ありえもしない。
* モナドがある視点からの宇宙の眺望であるといわれるとき、モナド自身が、開かれた窓そのものである。
* モナド同士のあいだの作用は、観念的たらざるをえない。
* 「感性的形象」について。認識を主・客関係を前提せず、具体的な存在者のあいだに成り立つもの。ものを表現している非物質的形象が、そのものを離れて人間に取り込まれ、そこに物の認識が成り立つとされる。これとは別に、デモクリトスが物から発する組織されたアトム(エイドロン)が、知覚するものにその物を再現させる、という説も念頭にあったと思われるとする。



10. 池田善昭の注解

* 「窓」について。モナドを理解するに際して、この言葉ほど人々を迷わせたものはない。モナドは、単純体、すなわち中心への集中であるかぎり、たしかに一つも窓はないが、しかし複合体、すなわちすべてと共可能的対応であるかぎりでは、そこではすべてが窓である、といってもよいであろう。一見すると、モナドはこうした不可思議な世界で、そのことが人々を迷わせたのだ。


11. 酒井潔氏は、自発的にして世界関係的を特徴とする西洋近世の「主観性」が、明確に決定的な仕方で提示されるのは、ライプニッツモナド概念においてであるとする。そして、モナドの〈無窓性〉が、モナド主観の自発性と世界関係性を同時に成り立たせているキータームであるとしている(酒井[2013])。 また、酒井氏は、実在的には無窓、志向的には有窓と、窓の両義性を指摘している。ライプニッツにおいて、知覚は、ロックら経験論者がとったような印銘im-pressioではなく、むしろ表出ex-pressioである。


12. 参考文献
・Leen Spruit, “Species, Sensible and Intelligible” in Encyclopedia of Medieval Philosophy, Lagerlund, Henrik (Ed.), Springer, 2011.
・酒井潔「モナド的主観の〈無窓性〉」『ライプニッツモナド論とその射程』知泉書館、2013。