labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§8

1. 原文

しかし、モナドはいくつかの性質を持たねばならない。でなければ、それは存在者ですらなくなってしまう[*また、もし単純実体が無であったならば、複合実体もまた無に還元されるであろう]。もし単純実体が、それが持つ性質によって区別されないならば、事物のうちに生じるいかなる変化も意識的に表象する仕方は存在しないであろう。というのも、複合体のうちに生じることは、単純な構成要素からしか由来しえないのであるから。そして、性質を持たないモナドは、互いに識別不可能であり、また、量においても異ならないのであるから。したがって、充満が仮定されているとすると、各々の場所は運動のうちに、それがこれまで持っていたのと同等のものをしか常に受け取らないこととなり、事物が持つ一つの状態は他の状態から識別不可能となってしまう。

Cependant il faut que les Monades ayant quelques qualités, autrement ce ne seraient pas même des Etres*. Et si les substances simples ne differoient point par leurs qualités, il n'y auroit pas moïen de s'apercevoir d'aucun changement dans les choses ; puisque ce qui est dans le composé ne peut venir que des ingrediens simples ; et les Monades étant sans qualités, seraient indistinguables l'une de l'autre, puisqu'aussi bien elles ne diffèrent point en quantité : et par consequent, le plein étant supposé, chaque lieu ne recevront toûjours dans le mouvement, que l'Equivalent de ce qu'il avoit eu, et un état des choses seroit indistinguable de l'autre.


* 草稿では次の言明が線を引いて消されている。"et [sans] si les substances simples étoient des riens, les composés aussi seraient reduits à rien."


2. 注目

・質(性質)と量の区別。モナドは数的には同じ<一>であり、区別できないのであるから、区別するとしたら、モナドが持つ内容すなわち性質によるほかない。
・単純実体がどれもまったく一様で、互いに区別するための異なる性質を複数持ち合わせないならば、複合体のうちにも意識的に識別できるような性質がないことになる、とライプニッツは推理する。一様な点と空間を持つ幾何学や、相対運動が問題となる対称的な物理学のモデルと比較して考察すべき箇所である。
・「充満」(le plein)とは、空虚の反対で、宇宙空間のいたるところ、いかなる細部においても、隙間無く物体すなわち延長が占めているとする仮説のことである。この意味での「充満」は、デカルトデカルト派らによって支持された。しかしこの観念の歴史は古く、プラトンアリストテレスなど、ギリシャ哲学にまで遡る(ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』)。ライプニッツもまた充満空間を現象レベルにおいて支持する。モナドの世界では、空間的比喩を用いはするが、モナドの世界をモナドが隙間無く埋めている、と解することはできない。モナドの世界は、延長的ではないからである。(デカルト的意味で)充満しているのはむしろ、モナドの内に映された現象世界の方である。
・「不可識別者同一の原理」をここで紹介しておいた方が良いであろう。すなわち、2つのものについて、両者が数的に異ならず、かつ、両者が持つ性質がまったく異ならず互いに識別不可能なら、その両者は同一である。ライプニッツが仕えたゾフィー妃が、この話を聞いて、ヘレンハウゼンの庭園に、まったく同じ2枚の葉を従者に探させたのは、有名な話。
・ここでの「場所」(lieu)を、「モナドが持つ場所」のように解する必要はない。「複合体が持つ場所」と解しても十分推論は追えるし、その方がライプニッツにとって整合的である。ライプニッツによれば、「モナドが性質を持たないならば、複合体も性質を持たない」(a)。したがって、モナドが性質を持たないとすると、複合体が持つ場所も、性質上の区別を持たない。今、充満を仮定すると、その複合体が運動したとき、すなわち、場所を移動(変化)したとき、さきほどいた同じ場所に、量的に同じある物体(すなわち別の複合体)が占めることになるが、このとき、性質上の区別は与えられていないのであるから、先の複合体と後からきた物体の両者を区別するものがなくなる。すなわち、2つのまったく同じ複合体が、同時に存在する。したがって、不可識別者同一の原理に反するが、これは不合理。よって、複合体はいくつかの性質を持たねばならない。したがって、[(a)の対偶より]モナドはいくつかの性質を持たねばならない。



3. 解釈
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4. 比較参照

* 『弁神論』序論 [GP VI, 45]. 魂はエンテレケイアすなわち能動的原理であり、物体的なものないし質料的なものは受動的なもののみを含む。もし、物体が受動的なもののみしか含まないならば、それらの異なる条件は不可識別であろう。
* PNG, §2. 内的な性質および作用による以外には、瞬間におけるモナドは区別できない。そしてこれら性質および作用は、モナドが持つ表象および欲求でしかありえないこと。表象は、単純者の内における複合的なものの表現、あるいは外部のものの表現である。欲求は、一つの表象から他の表象への傾向性、すなわち変化の原理である。というのも、実体の単純性は、同一の単純実体のうちに必然的に見いだされねばならない変様の多性を妨げない。そしてこれらの変様は、外的な事物について実体が持つところの、対応の多様な関係から成らねばならない。同じ仕方で、一つの中心ないし点において、完全に単純であるが、その内に、線によって形成される無限の角が見いだされる。
* G II, 252 de Volder宛 1703. 単純者のみが真なる事物であり、あとは、寄せ集めによる存在者のみが残される。この限りで、寄せ集めは現象であり、また、デモクリトスが述べたように、寄せ集めは規約によって存在するのであって、自然によって存在するのではない。したがって、単純者のうちに変化が存在しない限り、事物のうちにも変化が存在しないのは、明らかである。実際は、変化ですら、外側からは生じえない。というのも、反対に、変化への内的傾向は、有限な実体にとって本質的であり、変化はモナドのうちに、他のいかなる仕方でも、自然的には生じえないのである。しかし、現象あるいは寄せ集めにおいては、あらゆる新しい変化は、法則に一致する仕方で、物体の衝突から派生するものである。
* G II, 295 des Bosses宛 1706. デカルト主義者が望むように、これらの運動のみに加えて、充満と物質の一様性を認めるならば、まるで、宇宙全体が、その軸についての完全に一様な車輪の運動に還元されたかのように、あるいは、正確に同じ素材で作られた同心円の回転に還元されたかのように、事物のあいだには等しいものどもの置換を除き何も生じなくなることが帰結する。このことの帰結は、天使にとってすらも、或る瞬間における事物の状態を他の瞬間におけるそれと区別するのは可能ではないだろうということだ。というのも、現象のうちに多様性がありえないことになるからである。したがって、図形、大きさ、運動に加えて、そこから物質の現象間の或る区別が生じるような、何らかの形相をわれわれは加えねばならない。そして私は、そうした形相が知解可能で、エンテレケイアに由来するのでないかぎり、どこからこうした形相がとられたらよいのか、見当がつかない。


5. レッシャーのコメンタリー

* モナドは、その(算術的・幾何学的)量的な単純性にも拘らず、質的に複雑なものである。というのも、各々のモナドが、性質の(質的な)多を持つからである。実体は、残りのものから各々を区別するための或る特徴をそれらに授けるために、質を要求する。これらの質は、時間とともに展開されてゆく、外的な条件の内的な反映を表現する。質的変化の力あるいは能動の活動は、モナドのまさに本質である。
* ライプニッツにとって、諸過程を展開するための操作の劇場としての、世界のダイナミックな(動力学的な)特徴は、その最も重要な存在論的特徴であり、―先の時代のデカルトスピノザの理論のように―変化と妥協する適切な仕方を与えない形而上学的な立場は、それによって最初から失敗を運命づけられている。
* ライプニッツが見ているように、絶え間なく変化する各々のモナドの質的構造は、事物の全体的枠組みにおける、その固有の位置を決定する。というのも各モナドは、その個別的・特徴的・質的特質を持たねばならない。なぜなら、もし2つがそれらが持つ質の点で正確に似ているならば、それらはまったく差異ではありえず、それらは単に一つの同じものであろうから(これはライプニッツの不可識別者同一の原理のことで、§9でも扱われている)。
* 次のことにも注意せよ。すなわち、一つの全体としての宇宙は、良く調整されたモナドの統合的連結の体系、充満である。実際、諸モナドの質的複雑性は、その各々が―様々な「視点」から、そして、明晰性の度合いの違いによって、異なる仕方によるにも拘らずー全宇宙の表現を与える、という状況に存する(§62)。
* ライプニッツの充満仮説は、空間を、諸モナドで満たされているような、事物に先だって存在するニュートンの空の容器と考えているということを意味しない。実際ライプニッツニュートンの空間に関する見解もまた拒否する。ライプニッツは、空間を、その質的・内的関係において、点的モナドの組織から派生した存在者として考える。
* 世界が充満であるということは、その存在者も、いかなる観点も、ある現実存在する実体によって支配されていない、ということを単純に意味する。もし世界の実体が絶滅したならば、その空間もまた消え去る。それは単に現象的である。
* 元々、ライプニッツは第一文のあとに、「またもし単純実体が非存在ならば、複合体もまた無に還元されるであろう」と書いていた。しかし終わりには、よりとるにたりない認識的アプローチの第二文に置き換えて、存在論的定式化を脇に置いた(§2ですでにその考えは見られる)。


6. フィシャンの注解

* 場所と運動は延長に属する。モナドは延長および延長に関わるすべてのものを除いたものである。ただ、「事物のうちに」あるいは「複合体のうちに」直接観察しうるものから、それが単純な構成要素から派生したものでしかない限りで、モナドのいくつかの固有な特徴を推理することは許されている。
* したがって、次の2つの議論を結びつけられよう。
1. 観察可能な現象のうちに運動(場所の変化)が存在するのであるから、モナドは互いに異ならねばならない。ところで、モナドは量的には異ならない。というのも、量は部分への分割を仮定するからである。
2. もしモナドが質において異ならないならば、モナドは不可識別である。したがって、複合体においては、どこであれ場所のうちに配置された運動状態は、いたるところで等しく不可識別となり、運動そのものは現れないと再び言うことができる。
さて、現象はこの観察可能な識別可能性を十分備えている。不可識別者の原理の観察的バージョンは、この意味で、その最も強い形而上学的定式化を結論することを許す。そのことは次節で一般的に述べられる。


7. 河野与一の注解

* 「性質が無ければ存在ですらない」とライプニッツが述べている箇所について。量は存在を増すことはできても構成することはできない、ただ性質すなわち内的規定la dénomination intrinsèqueのみが存在を決まったものとして確立できる、とする。


8. 工作舎ライプニッツ著作集

* モナドのつくる世界には、量とか質のカテゴリーは適用されない。
* モナドが持つ独自の特徴は、次節で、「内的規定」と言われる。
* 充満[充実空間]について。すべての場所がそれを占めるもののない場所つまり「空虚」のない状態。ライプニッツは充実空間の考えを支持。
* 運動において延長を考慮するだけでは、運動によって場所を移動した物体の状態に変化を生じさせることはできない。また充実空間の仮定から、もとの場所を、まったく同質同量の物体が占めることになる。


9. 池田善昭の注解

* 「充填しきった空間」(le plein)を、第一質料だけで充填された空間で、どこまでも一様に広がった延長の世界、と解釈する。【池田善昭氏が解する充満空間は、デカルト主義者のとる充満空間である。工作舎ライプニッツ著作集の注解が述べるように、ライプニッツは充満空間を支持するし、運動が属する物理的世界すなわち現象世界においても、不可識別者同一の原理は十分成り立つ。充満空間の仮定は、そこにまったく同量の物体がふたたび占めることを導き、そこから、延長すなわち量的側面だけしか考慮しない場合に、不可識別者同一の原理に反し、不合理に陥ることを示したいがために、論証上仮定されたものである。充満空間の否定を導きたくて、背理法として仮定されたものではない。ライプニッツは論理的な議論を提示しているのである。】


10. 参考文献

  • アーサー・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』内藤健二訳、晶文社、1975年。