labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§9

1. 原文

各々のモナドは、それぞれ他のモナドと異なっているのでなければならない。というのも、自然のうち、および、内的差異あるいは内在的規定に基づいている差異を見いだすことが出来ないところでは、一方が他方と完全に似通っている2つの存在者は決して存在しないからである。

Il faut même que chaque Monade soit differente de chaque autre. Car il n'y a jamais dans la nature deux Etres, qui soient parfaitement l'un comme l'autre, et où il ne soit possible de trouver une difference interne, ou fondée sur une dénomination intrinseque.


2. 注目

・「内的差異」あるいは「内在的規定」という、スコラ哲学の用語が前提されている。
・「内在的規定」dénomination intrinsèque (denominatio intrinseca)とは、「外在的規定」dénomination extrinsèque (denominatio extrinseca) の対義語で、或る事物ないし或る実体が、それ自体においてもつ内在的性質のことを指す。他方で「外在的規定」とは、或る事物ないし或る実体それ自体から由来しない外在的性質のことで、他の存在者との関係において偶有的に持つ性質を指す。
・内在的規定/外在的規定については、アルノーとニコルの『論理学あるいは思考の術』La Logique ou l'art de penser, 1662(1683)、通称『ポール・ロワイヤルの論理学』においても受け継がれ、次のように述べられている。

「様態という主題に関して、内在的と呼びうるものがあることにわれわれは注目することができよう。というのも、われわれは実体のうちにそれら様態を認識することができるからである。たとえば、「丸い」や「四角い」といったような様態がそうした内在的様態である。他のものについては、外在的と名付けることができる。というのも、それらは実体のうちにない何かあるものからとられたものであるからである。たとえば、「愛されている」、「見られている」、「望まれている」など、他者の行為からとられた名前などが、そうした外在的様態である。そして、これがスコラで外在的規定dénomination externeと呼ばれているものである」

トマス・アクィナスは、アリストテレスの10のカテゴリーのうち、最初の4つ:実体・質・量・関係は内在的規定で、後はすべて外在的規定であるとした。しかし、その区別には論争があり、とりわけ関係の位置づけについて論争がある。現代哲学では、関係が内的ならば、その関係は内在的規定であり、外的ならば、外在的規定である、という風に受け入れられている(cf. The Blackwell Dictionary of Western Philosophy)。
・「不可識別者同一の原理」については、前節参照。
・内在的規定/外在的規定というスコラ哲学の通俗的規定は、ライプニッツモナドにおいては、すべて内在的規定として処理されることになる。モナドは他のモナドと因果的な関係を持たず、モナドが持つ性質はすべて、そのモナドそのものの内に存在する。一見、外在的規定と思われる関係や性質でも、すべてモナドの内にその根拠を持つ。いっさいがモナドのうちに現象するからである。


3. 解釈
🚧


4. 比較参照

PNG, §2. というのも、実体の単純性は、同一の単純実体の内に一緒に必然的に見いだされねばならない様態が多となることを妨げない。そしてこれら様態は、実体が外部の事物について持つ、対応の関係の多様性に存するのでなければならない。同じ仕方で、一つの中心あるいは点において、全く単純であるが、そのうちで交わる線によって形成される無限の角度が見いだされうる。

* NE 序文. [邦訳は著作集2, p.26-27より] 私はまた、感覚でとらえられないほどの変異のゆえに、二つの個物は完全に同じではありえず単に数の上で(numero)区別される以上にこの二つの個物は常に異なっているはずだ、と指摘した。
このことは次のような考え方を破砕する。すなわち、魂は何も書かれていない書字板であるとか、思考していない魂や活動していない実体があるとか、空間の空虚とか、アトムとか、物質内部に現実的に分割されていない小部分があるという考えさえも。そして、時間・場所・物質の部分における完全な一様性とか、根源的に完全な立方体から生まれるーー第二元素のーー完全球体とか、不完全な概念に由来する哲学者たちのその他無数の虚構(フィクション)を破砕する。こういう虚構を事物の本性は決して認めない。われわれの無知や、感じとれぬものに対して払うべき注意の欠如のゆえに、それらの虚構が生じてしまうが、こうした虚構は精神の抽象に限るのでなければ容認できないであろう。
しかも精神は、抽象の際に脇に置き、目前の考察には入れるべきでないと判断しているものでも、決して否定しさらぬよう主張しているのだ。そうではなく、意識表象されないものは魂や身体のなかにありはしないと、そのまま受けとってしまうなら、政治においてと同じく哲学においても、ト・ミクロンをなおざりにしてしまい、感じとれないほどの進展を見過ごしてしまうことになろう。これに対して、気づかれない事柄がそこにあることを知っていれば、抽象は誤りでない。それは、物質(すなわち周囲にある無限なものの諸結果の混合体)が常に何らかの例外をもたらすにもかかわらず、数学者が抽象を用いるのと同様だ。数学者は、われわれに提示する完全な線とか、等速度運動とか、その他の規則だった諸結果について語るときに抽象を用いるのである。このように抽象するのは、考察内容を区分し、その諸結果をできる限り理由へ還元し、そこからいくつかの帰結を予見するためである。なぜなら、われわれのみちびく諸考察を何ものもなおざりにしないよう注意すればするほど、実践は理論に対応してくるからである。
けれども、無限全体とすべての理由とすべての帰結を判明に捉えるのは、至高の理性にのみ属する。何ものも、至高の理性の理解を越えることがない。無限なものについてわれわれがなしうることのすべては、それを錯然と認識し、少なくともそれがそこに存在していることを判明に知ることである。そうでなければ、宇宙の美しさや偉大さについてきわめて不完全に判断することになるし、事物一般の本性を説明する優れた自然学も持ちえず、神や魂や単純実体一般についての認識を内包する良き精神学もなおのこと持ちえないであろう。

* NE II, 1 [著作集4, p. 112] 魂であれ身体であれ、どんな実体的事物も、多の実体的事物のそれぞれに対して自分固有の関係を持っている。ひとつの実体的事物は、常に内的規定によって多の実体的事物と異なっている。タブララサの説批判。観念を取り除いたとき、そのあとに何が残るか言えない。・・・

* NE II, 27 [著作集4, p. 275] 時間と場所の差異に加えて、内的な区別の原理principe interne de distinctionが常にないといけない。事物はそれ自体において区別されうる。事物が時間と場所を区別するもとであること。

* NE II, 27 [著作集4, p. 276] もし原子があったら、同じ形と大きさを持つものがありえて、それらは外的規定によってしか識別できなくなる。しかしこれは、理由律に反する。

* DM, §8. 述語の主語内在説。個体的実体の本性すなわち完足したものの本性とは、「完成した概念」を持っていること。完成した概念とは、つまり、「この概念が属している主語がもっているすべての述語を理解したり、またそれらの述語を主語から演繹したりするのに十分なほど完成した概念を持っていること」。

* DM, §9. 二つの実体がすっかいり似ていてただ数においてのみsolo numero 異なる、ということは真ではない、という逆説。トマスによれば、同じ種の実体が個体化されるのは、それぞれの質料による。それによれば、叡智的存在者である天使はただ形相によって個体化される。ライプニッツはそれを幾何学的図形の種差、すなわち三角形とか四角形とかになぞらえて理解し、それがすべての実体について真であることを認める。


5. レッシャーのコメンタリー

* ある事物の内在的規定あるいは内的規定とは、その事物の記述的な組成に内在する諸特徴の規定のことであり、他の事物に対する諸関係と対比されるものとしての、質的性質を指し示している(その用語は、デカルト派の主要な理論家の一人であったアントワーヌ・アルノーによって、『ポール・ロワイヤルの論理学』, I, ch. 2, 1662からとられたものである)。 
* ライプニッツはその初期の頃から、何が実体を個体的なものとならしめ、その他すべての実体から区別しているものとして決定せしめているのか、という問題に対処するための、「個体化の原理」の問いによって興味をそそられていた。
* この節では、その核心が、実体の「質的な組成」qualitative makeupに存する、ということを語っている。つまり、いかなる二つの事物も、質的に完全に似ていない(けれどもそれらは、もちろん、多くの点で質的に類似した物でありうる)。
* この「不可識別者同一の原理」はまた、「多様の非類似性の原理」としても特徴づけられてきた。もし異なる事物がその内的な構成において全体的に類似しうるならば、それらのうちの一つがなぜ特殊な(そして差別化する)関係を他の事物に対して産まねばならないのかについて、当てはめることができるような、いかなる理由もない。したがって、このとき、ライプニッツの根本的な「充足理由律」をおかしてしまっている(§32)。
* ライプニッツは、その不可識別者同一の原理を、ニコラウス・クザーヌス(1401-64)に負っている。クザーヌスは、「正確に同じであるようないくつかの事物というのはありえない、というのも、その場合には、いくつかの事物はありえず、同じものそれ自体であろうから」と主張した。したがって、あらゆる事物は互いに同時に一致しまた異なる(『知恵の狩りについて』De Venatione Sapientiae, 23)。『学識ある無知について』De docta ignorantia, iii, Iと比較せよ。すなわち、「あらゆる事物は、必然的に互いに異ならねばならない。同じ種のいくつかの個体のあいだで、完全性の度合いの多がある。いかなる他の事物にも見いだせないような、何らかの単一性を享受しないようなものは、宇宙には存在しない」。
* 不可識別者同一の原理は、スピノザの『エチカ』においてもある役割を演じる。そこではスピノザは、「事物の自然においては、同じ本性あるいは属性を持つような、2つあるいはそれ以上の実体は存在しえない」【In rerum natura non possunt dari duae, aut plures substantiae ejusdem naturae, sive attributi】(I, prop. 5)とする。


6. フィシャンの注解

* 「内在的規定」denominatio intrinseca とはスコラの用語。主語(となっている基体)にあてがわれた述語がその主語の内的性質に対応するとき、内在的規定が存在する(「アリストテレスは賢者である」)。関係的性質に述語が割り当てられる場合には、「外在的規定」と言われる(「アリストテレスアレキサンダーより賢い」)。
* しかし、ライプニッツの主張は、外在的規定そのものはつねに「ある基礎を事物そのもののうちに持つ」(fundamentum in re)というものである。すなわち、外在的規定そのものはつねに内在的規定のうちにその基礎を持つ。


7. 河野与一の注解

* 河野によれば、物の「内在的規定」とは、物がそれ自身において持っている性質のこと。たとえば、形、運動、慣性。対して、物の「外在的規定」とは、物が他の物との関係においてはじめて持つような性質のこと。たとえば、知覚や欲求など。


8. 工作舎ライプニッツ著作集

* 「内的規定」とは、物がまさにその物であるために、必要不可欠な性質あるいは規定。
* 「外的規定」とは、それなしでも、そのものであることに変わりのない規定。
* どのモナドも自分に生じることをすべて含んでいるのだから、それを欠いても当のモナドでありうるという「外的規定」は本来ありえない。【モナドの同一性は、そのモナドが持つすべての性質によって決定されねばならない、という前提が必要】
* 「不可識別者同一の原理」とは、自然の中で、完全に似て弁別不可能な二つの物は、実は二つではなく同じ一つの物である、言い換えれば、完全に似ている等しい二つの物は存在しない、という原理。
* 現実に存在するものには、その存在とその存在の仕方に対して十分な理由がある、とする「充足理由律」(§36)から、不可識別者同一の原理が導かれることを示唆。


9. 池田善昭の注解

* 存在それ自体が有する性質を「内的規定」というのに対して、存在と存在との関係によって生起する性質を「外的規定」という。
* たとえば、<運動>は存在それ自身の有する性質であるが、<欲求>は存在が他の存在に関係することによって生起する性質である。
* しかしモナドでは、一般に外的規定と考えられるものさえ、すべて内的規定となる。
* なぜなら、存在と存在との関係は、モナドにおいて複合体の側面をいうにすぎないからである。
* その意味での外的規定は、モナドにおいて、つねに内的規定と予定調和するものでなければならない。


10. 参考文献

工作舎ライプニッツ著作集、第4巻 認識論 『人間知性新論』上。
・A. Arnaluld, P. Nicole, La Logique ou l'art de penser, 1683, Edition critique par Pierre Clair et François Girbal, 2nd éd., Vrin, 1993.