labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§13

1. 原文

Ce detail doit envelopper une multitude dans l'unité; ou dans le simple. Car tout changement naturel se faisant par degrés, quelque chose change et quelque chose reste ; et par consequent il faut que dans la substance simple il y ait une pluralité d'affections et de rapports, quoy qu'il n'y en ait point de parties.

この詳細[内的な複雑性]は、一の内に、あるいは、単純者の内に、多を含まなくてはならない。というのも、あらゆる自然的変化は次第になされるものであるが、なんらかの事物は変化し、なんらかの事物はとどまるからである。したがって、単純実体の内には多数の変様と関係があらねばならない、たとえその内に部分はなくとも。

2. 備考

モナドすなわち単純実体は、物理的部分を持たないという意味では単純であるが、自らが基礎づけているところの事物が持つ変化や他の実体との関係をその内に(表現として)含む意味では、単純ではなく、むしろ多である。モナドは、自然的変化のうちで連続的に一なるものとして存続し、かつ、自然的変化の差異と多様を内に包摂し表現するものでなくてはならない。こうモナドを規定することで、ライプニッツがいかなる問題を解決したいのか、が問われなければならない。

・草稿では「多数の偶有accidens」から「多数の変様affections」に変更している。これは自然的多様性の心的現象化を用語によって表現しているともとれる。すなわち、自然の偶然的変化を、魂ないし精神の変様として非物質的に描いているのであろう。

3. 解釈

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4. 比較参照

* PNG, §2. モナドは形状を持ちえない、というのも、もし形状を持っているとすると、部分を持つからである。したがって、内的な性質および作用による以外には、瞬間におけるモナドは区別できない。そしてこれらは、モナドの表象および欲求でしかありえない。表象は、単純者の内における複合的なものの表現、あるいは外部のものの表現である。欲求は、一つの表象から他の表象への傾向性、すなわち変化の原理である。というのも、実体の単純性は、同一の単純実体のうちに必然的に見いだされねばならない変様の多性を妨げないからである。そしてこれらの変様は、外的な事物について実体が持つところの、対応の多様な関係から成らねばならない。同じ仕方で、一つの中心ないし点において、完全に単純であるが、その内に線によって形成される無限の角が見いだされる。

* PNG, §3. それ自体の作用によって互いに現実的に分離されている単純実体が存在する。そしてそれら単純実体は、連続的に自分たちの関係を変化させている。


5. レッシャーのコメンタリー

モナドの複雑でダイナミックな内的性質の構造は、単純実体の決定的側面である。
そのような実体は(部分を持たないということで)「物理的に」のみ“単純”である。
モナドは確かに「記述的な」意味では“単純”ではない。というのも、それはともに、(1)どの与えられた時間においても複雑な記述的状態(すなわちその詳細)をもち、(2)時間を通じて変化し続ける内化された“プログラム”を持つからである。ライプニッツは実体の他の実体との相関関係(rapport)を否定しない。反対に、そのような相関関係性の上に、そのような相関関係が相互の調和(attunement)を通じて常に「内化」されているのである。
この後者の現行の再調整の状況が、作用主体の基礎であり、内的に前もって計画された変化から常に自然的に生産されるものであり、モナドは“窓を持たない”のであるから、外部からは決して変化は引き起こされないのである。

・「あらゆる「自然的」変化は常に程度によって生じる」、という前節での強調について、第6節の内容「複合体におけるあらゆる変化は部分によって生じる」と比較せよ。ライプニッツが見ているように、物質的領域の量的変化は、こうしてモナドの領域である、形而上学の質的変化と関連づけられる―そしてそこに究極的に根拠づけされる。

・「あらゆる自然的変化は常に程度によって生じる」という状況は、ライプニッツにとって重要である。物理的自然は、そのような連続性を、その操作の法則においていたるところで確立する、 という事実を、彼は連続律(lex continuitatis)として特徴づける(sec. 10と比較せよ)。
その様々な提示を通じて、この連続律は、ライプニッツによって、最善律(Principle of Perfection)の帰結として提示される。彼が有用な数学的あるいは物理学的原理を保有しているとき、ライプニッツは連続律を哲学に適用し、そこでは次の定式化がなされる。
「飛躍は、運動において禁止されているだけでなく、事物と真理のあらゆる秩序においてもまた禁止されている。」GP III, 635