labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§14

1. 原文

L'état passager qui enveloppe et représente une multitude dans l'unité, ou dans la substance simple, n'est autre chose que ce qu'on appelle la PERCEPTION, qu'on doit distinguer de l'apperception ou de la conscience, comme il paraîtra dans la suite. Et c'est en quoi les Cartesiens ont fort manqué, aïant compté pour rien les perceptions dont on ne s'apperçoit pas. C'est aussi ce qui les a fait croire que les seuls Esprits étoilent des Monades, et qu'il n'y avoit point d'Ames des Bêtes ny d'autres Entelechies ; et qu'ils ont confondu avec le vulgaire un long étourdissement avec une mort à la rigueur, ce qui les a fait encore donner dans le préjugé scholastique des ames entièrement séparées et a même confirmé les esprits mal tournés dans l'opinion de la mortalité des ames.

一性の内に、あるいは単純実体の内に、ある多を包蔵しかつ多を表現する移行[推移]的状態が、表象と呼ばれるものにほかならない。表象は、意識的表象および意識とは区別しなければならないもので、以下で明らかにされよう(*)。そして、デカルト派の人々がひどく誤ってしまったのは、このことについてである。彼らは、われわれが意識しない表象など無いとみなしてしまったのだ。このことは、彼らをして、精神[Esprits=理性を持った人間]のみがモナドであり、動物の魂も他のエンテレケイアも存在しないという考えへと導いた。そして彼らは、俗説にしたがって、長い陶酔[昏睡状態]を厳密な意味での死と混同してしまった。そのことは、完全に分離された魂というスコラ的な偏見へと彼ら[デカルト派の人々]を導き、精神[人々]を魂の死性という意見に誤って陥るように確信させることになった。

* Rescherは§§19, 23-24を指示


2. 備考

・単なる表象(perception)と意識的表象(aperception)を区別する有名な箇所。

デカルトは、機械的身体と理性的魂を持つ人間に対し、動物は理性的魂を持たない単なる自動機械であるとする「動物機械論」を唱えた。そこにおいては、アリストテレス派が魂に認めた「生命の原理」も、デカルトにとっての身体すなわち自動機械に還元されている。

これに対しライプニッツは、動物にも魂があるとし、そのことを、表象のレベルを区別することによって根拠づけようとする。すなわち、表象には、自覚される意識的表象とは別に、意識されない無意識的表象があり、人間(の魂)が持つ自覚的表象あるいは反省的意識は、あくまで表象のうちでも特殊なケースにすぎず、人間ですらこの意識的表象を常に保って活動しているわけではないとする。

・たとえばトマスは、『定期討論集 デ・アニマ』Quaesitionis disputatae de Anima, §14において、「身体から分離した魂」について論じ、これを魂の不死性の観点から擁護した。

アリストテレスのデ・アニマ(魂について)では、質料(素材)から分離されて存在する思惟(知性)について述べられている(De Anima, 430 a 17-25)。このことが、トマスをはじめ、「能動知性」に関するアリストテレス解釈の問題を引き起こした。「そしてこの知性は、分離されて存在し、まさにそれであるところのものであり、それ以外ではない。そしてこれだけが、不死であり永遠である。しかしわれわれが記憶を欠いているのは、このような知性は確かに作用を受けないが、作用を受けうる知性が可滅的であるからである。そして、この作用する知性なくしては何も知性認識することはないのである。」(『魂について』中畑訳、『アリストテレス全集』152頁)。


3. 解釈
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4. 比較参照
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* PNG §4 「したがって、外的事物を表現しているモナドの内的状態である表象と、意識あるいはこの内的状態の反省的認識である意識的表象とを区別するのが良い。後者はすべての魂に与えられているわけではなく、また、同じ魂に対しても常に与えられているわけではないものである。そして、デカルト派の人々が、人が無感覚の身体を無とみなすように、人が自覚しない表象を無とみなしてこの区別を欠いてしまったのは、誤りであった。そして、同じデカルトの人々は、精神のみがモナドであり、動物には魂はなく、別の生命の原理を持つわけでもない、とも考えた。・・・」

* 『人間知性新論』の序文(NE, 54)では、波打ち際で、波の音を聞いている事例が挙げられている。注意すれば一つ一つの波の音は聞こえるが、全体として雑然と聞こえているのみであって、細かい波の音のすべてをわれわれは判然と捉えているわけではない。『形而上学叙説』§33でも同様の事例が、雑然とした表象の事例として挙げられている。

* NE, 114:「あらゆる印象はその効果を持つが、あらゆる効果が常に注目しうるとは限らない」。ライプニッツはさらに、われわれが思慮を欠いたある行動をしたりするのは、実は微小表象が連結した結果であり、われわれが気づかない微小表象が、われわれの習慣や傾向性に影響を与えているとする。


5. レッシャーのコメンタリー

ライプニッツにとって、表象は、極めて幅広い概念であり、「単一の実体内部における、一における多の表現」とされる。より高度な動物が持つ意識的表象は(人間が可能な自意識的な意識的表象は言うまでもなく)、表象の中でも非常に特殊なケースである。

デカルト派は、(植物や動物に類似した)推論することができないあらゆる有機体が、厳密に機械的な仕掛けあるいは「生きたオートマトン(自動人形)」であるとした。合理的な思惟実体の領域から除かれて人間より下位にある動物は、厳密に物理的なメカニスムを持つものとしての延長実体の領域に属すことになる。

これに対しライプニッツは、あらゆる精神的生命は意識を持たねばならないというデカルト的考えに強く反対した。意識的自覚という敷居の背後にある、無意識的表象(いわゆる微小表象)は、彼の思想の決定的な手段である。

ライプニッツにとって、表象というのは、存在者の特殊な類が持つ能力ではなく、自然を通じて充満しているものである。

モナドには3つのレベルがある。すなわち、1. エンテレケイア=創造されたモナド一般、2. 魂=動物における支配的モナド、3. 精神=理性的被造物における支配的モナド

これらは、すべて表象を実行する者である。エンテレケイアの観念の説明については18節参照。魂は意識的でありうるし、意識的表象(自己意識)は精神のみに生ずる(この3者構造は、19, 23-30節でより完全に扱われる)。

魂の休止状態(長期昏睡状態)を死と混同する傾向については、21, 73節参照。後者は存在停止の問題であり、前者はより低次の能力における魂のはたらきの問題である。それは、より高度のレベルのモナドが一般的にほとんどの時間を通じて行っているものである。