labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§21

1. 原文

Et il ne s'ensuit point qu'alors la substance simple soit sans aucune perception. Cela ne se peut pas même par les raisons susdites ; car elle ne sçauroit périr, elle ne sauroit aussi subsister sans quelque affection qui n'est autre chose que sa perception et mais quand il y a une grande multitude de petites perceptions, ou il n'y a rien de distingué, on est étourdi ; comme quand on tourne continuellement d'un même sens plusieurs fois de suite où il vient un vertige qui peut nous faire évanouir et qui ne nous laisse rien distinguer. Et la mort peut donner cet état pour un temps aux animaux.

しかしそこから、単純実体がいかなる表象も持たない、という帰結は出てこない。そのことは、上述の理由からもありえないことである。なぜならば、単純実体は滅びることもできなければ、その表象にほかならないところの何らかの変状なしには存続することもできないからである。微小表象が極めて多いとき、あるいは、何も判明な表象がないときには、人は茫然自失の[ぼんやりしている]状態にある。連続的に何回か同じ方向に回るとすると、気を失わせるような眩暈がして、何も見分けがつかなくなってしまうようなものである。死は、動物に対ししばらくの間、この状態をもたらすことができる。

2. 備考

「死」によっても、単純実体は滅びることはなく、それは気絶をしているようなもので、死後も微小な表象が存続しているとライプニッツは考えている。しかし、では死後も残る微小表象がいったい何なのかという問題には踏み込んでいない。


5. レッシャーのコメンタリー

ライプニッツ流の「表象」は意識的あるいは自覚的である必要はなく、したがって知覚よりもはるかに幅広い何かである。というのも、われわれの経験は、あまりに小さい「微細な」表象で溢れており、それは意識的な自覚の閾を越えたところにあるからである。しかしそれらは多様であるため、何か判明なものを生産しうる。

そのような微小な、サブリミナルな表象は、われわれ人間にとって、無意識や死との関係だけでなく、「周辺的な」表象(周辺視野)や「寄せ集め的」表象(波の音を遠くから聞く際に、個々の波が後件しているときのように)にも関わるからである。各々の、および、すべてのモナドの表象は、全宇宙を包摂するところまで手を伸ばす。

モナドに関しては、われわれは質や変状・表象のあいだに徹底的な1to1の配位(調整coordination)を持つのであり、どれも、事物の同じ状態の、単純な異なるアスペクトである。モナドの質は、そのうちでそれが世界を表象している、また、それを合成している異なる実体によって変状されている、多様な仕方を反映するあるいは表現する。

個々の知覚不可能な表象が多く集まると知覚可能な表象となる考えは、ストア派によって古代に導入されたソリテス・パラドックスの議論にまで遡り、セクストゥス・エンペイリコスによって包括的に批判された。