labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

クラヴィウス『エウクレイデス原論注解』における点の定義の説明

先日のパスカル・シンポでは,とりわけ三浦先生のパスカル幾何学序論」にかんする発表に刺激を受けた.エウクレイデス『原論』およびその系譜の数学史の専門家の観点から,パスカルの「幾何学序論」の重要性をみごとに解析していた.発表原稿には,「幾何学序論」の翻訳もついていた.

パスカルの「幾何学序論」は,パスカルの遺稿の一つであるが,残されているのはライプニッツが筆写したもののみであって,ライプニッツ研究の観点からも,非常に重要な作品である.すでに以前からその存在を知っていたし,いずれ研究しようと思ってDescotes版のGéometries de Port-Royalなども入手していたが,なかなか手をつけられずにいて,すっかり失念していた.その意味でも,改めて課題を思い出す,良いきっかけとなった.

そこで,パスカル幾何学序論」をはじめ,ロベルヴァルやアルノーなど,当時の幾何学の導入がどのようになされているか,改めて関心を持った次第である.三浦先生の翻訳と照らし合わせつつ,原文をちゃんと読んでみることにした.

幾何学序論」では,パスカルはすでに「空間」の概念を幾何学に導入しており,物体したがって立体から面・線・点へと下降する,トップダウン的な定義が採用されていることが示唆されていた.当時すでにロベルヴァルをはじめ,下降的定義が採用されていたようだ.周知のように,エウクレイデスを始めとして,16−17世紀に出版された諸版が点からはじまるボトムアップ的な上昇的定義を通常採用しているので,これは興味深い事態と言える.

ただ,なぜそのような下降的定義が採用されたのか,その理由についてはもっと踏み込んだ検討が必要なように思われた.そこで,従来の研究課題を思い出し,重い腰を挙げて,16−17世紀にかけての数学について,とりわけ点の定義や連続体・空間の定義を中心に,再び調査することにした.

16世紀には,エウクレイデス『原論』の再発見がされ,その後17世紀まで,諸版の出版が相次ぐ.ラテン語に翻訳されたものとしては,とりわけウルビノのフェデリコ・コマンディーノやクリストフ・クラヴィウスのものが重要である.クラヴィウス版は翻訳というより独自の校訂と注解であり,立体論にかんする第XVI巻が付け加わっている.フランス語による翻訳も相次いで出版されるが,版を重ねて普及したDechales版の仏訳が重要である.

Claude François Millet Dechales, Les Elemens d'Euclide, expliquez d’une manière nouvelle & tres-facile, avec l'Usage de chaque Proposition pour toutes les parties des Mathematiques, Nouvelle edition : 1683

そこでのDechalesの点の定義の説明はなかなか興味深いので引いてみる(p. 2).

Le Point est ce qui ne contient aucune partie.

Cette definition se doit prendre dans ce sens. La quantité que nous concevons sans distinguer ses parties, on sans penser qu'elle en ait, est un point Mathematique, bien different de ceux de Zenon, qui estoient tout à fait indivisibles, puisqu’on peut douter avec raison, si ces derniers sont possibles, quoy qu'on ne doute pas des premiers, si on les conçoit comme il faut.

点とはいかなる部分も含まないものである.

この定義は次の意味でとらえなければならない.すなわち,その部分を区別することなしに,あるいはそうした部分を持っていると考えることなしに私たちが認識している量とは,数学的な点のことであり,まったく不可分な量であったゼノンのものとはまったく異なる.というのも,後者が可能かどうかは正当な理由によって疑うことができるからである.対して前者については,それらをそうあるべきものとして認識すれば,疑うことはない.

点の定義を,概念的に問題のある「不可分者」としてではなく,単純に,「数学的点」として捉えよ,ということのようだ.この時代は,やがて微積分が不可分者の幾何学に取って代わる時代にあり,移行期における不可分者に対する懐疑が示されていよう.

点を「いかなる部分も持たない」もの,したがって,「分割ができない」ものであると演繹するのが,通常の理解であろう.ただし,「単に部分をもたない」や「不可分である」というだけでは,数学的・幾何学的な点として十分でないことも,指摘されてきた.たとえば,ライプニッツは,モナドすなわち単純実体を定義して,「単純とは部分がないこと」であり(『モナドジー』1714,§1),「部分がないところには,拡がり(延長)も,形も,可分性もない」(同,§3)と演繹している.したがって,「部分がない」というだけでは,形而上学的点であるモナドも含まれてしまうし,「瞬間」や一部の者たちが定義する「原子」だけでなく,さらにはパルメニデス的な連続的な一なる「存在」も,新プラトン主義的な「一者」や,キリスト教的な「神」なども,この条件を満たしてしまう.

点の定義だけでも,こうしたさまざまな問題を孕むので,エウクレイデスの『原論』は哲学や神学の観点からも注目され,多くの注釈がほどこされてきたのだと思われる.

1574年には,クラヴィウスによっても『エウクレイデス原論注解』が出版され,イエズス会派の学校でも教えられたり,哲学者たちにも広く読まれたようである.そこで,クラヴィウスによる点の定義の説明に注目してみよう.

引用は,

Christophorus Clavius, Commentaria in Euclidis Elementa Geometrica, Opera Mathematica, 1612

の第I巻による.

まず,定義1として,「とは,いかなる部分も持たないものである」と紹介され,以下に注解が施されている.注解では,『原論』第一巻全体の説明がされ,それが「三角形の起源と性質を,それらの角度ならびに辺に関して,われわれに伝えてくれるものである」とされる.先立って注解をしたプロクロスなどにも言及があるが,点にかんして言及されるのは,中盤あたりからなので,前半は飛ばしてそこから粗訳を始めることにする.

Ante omnia vero Euclides more Mathematicorum rem propositam exorditur à principiis, initio facto à definitionibus, quarum prima punctum explicat, docens illud dici punctum in quantitate continua, quod nullas habet partes.

しかし,何よりもまず,エウクレイデスは数学者の流儀によって,提起された問題を,原理から取り掛かり,まず最初は定義から始め,その第一に点を説明し,いかなる部分も持たないものが,連続量における点と呼ばれることを教えている.

ここでは,原理から問題へ,したがって定義から始めると言う「数学者の流儀によって(more Mathematicorum)」エウクレイデス『原論』が書かれていることが説明される.そして,点が連続量において点であることが付記される.

Quæquidem definitio planius ac facilius percipietur, si prius intelligamus, quantitatem cōtinuam triplices habere partes, vnas secundum longitudinem, alteras secundum latitudinem, & secundum profunditatem altitudinemve alteras ;

なぜなら,連続量には三つの部分があり,一つは長さによるもの,もう一つは幅によるもの,そしてもう一つは深さまたは高さによるものであることを最初に理解すれば,この定義はより明白かつ容易に理解できるからである.

ここでは,「部分」というのが点の部分という意味においてではなく,したがって点が全体/部分関係を持ちえないものである,ということではなく,連続量が持ちうる三つの次元,すなわち長さ・幅・深さ(高さ)のことであると解釈されているのが興味深い.言い換えれば,「点はいかなる部分も持たない」とは,「点は次元を持たない」ということであり,点がゼロ次元の存在者だということになる.

quanquam non omnis quantitas omnes has partes habet, sed quædam vnicas tantum secundum longitudinem ; quædam duplices, ita vt illis adijciat partes etiam latitudinis ; quaedam denique, praeter duplices has partes, tertias quoque, altitudinis, siue profunditatis continet.

ただし,すべての量がこれらの部分をすべて持っているわけではなく,長さのみによる量もある.また,二つの部分をもつ量もある,つまり[長さに加えて]幅の部分もそれに追加される量がある.さらに、これらの二つの部分に加えて,高さまたは奥行きの 3 番目の部分も含まれている量がある.

Quantitas enim omnis continua aut longa solùm est, aut longa simul, & lata, aut longa, lata, atque profunda.

なぜなら,あらゆる連続量は,長さのみであるか,長さと同時に幅をもつか,長さ・幅そして深さをもつかだからである.

連続量が,長さのみをもつ一次元の対象(すなわち線),長さと幅をもつ二次元の対象(すなわち面),長さ・幅・深さをもつ三次元の対象(すなわち立体)のいずれかで尽くされることが述べられている.

Neque, aliam dimensionem habere potest res ulla quanta, ut recte demonstravit Ptolemeus in libello de Analemmate, opera Federici Commandini Vrbinatis nuper in pristinam dignitatem restituto, necnon, ut ait Simplicius, in libello de Dimensione, qui quidem, quod sciam, adhuc nondum est excusus.

また事物はある量について別の次元を持つことはできない,プトレマイオスがアナレンマに関する本で正しく証明したように,またウルビノのフェデリコ・コマンディーノの作品が最近以前の威厳を取り戻したように,そしてシンプリキオスが,次元に関する本で,断言したように,それは確かに,私が知る限り,これまでのところまだ作り出されていない.

上より,したがって,四次元以上の幾何学的対象はない,ということが説明されている.クラヴィウスの説明は,数学的な証明にはまったくなっていないが,プトレマイオスやコマンディーノ,シンプリキオスらの先行的研究に依存して,ないし彼らの権威を借りて説明している.

Itaque, quod in quantitate continua, sive magnitudine existit, intelligiturque sine omni parte, ita ut neque longum, neque latum, neque profundum esse cogitetur, (ut nimirum excludamus animam rationalem, Nunc vel Instans temporis, & unitatem, quæ etiam partes non habent) id appellatur ab Euclide, & à Geometris punctum.

したがって,連続的な量,あるいは大きさにおいて,すべての部分がないものと理解されて存在するものは,すなわち,長さも,幅も,深さもないものとして考えられたものは,(もちろん,同じく部分を持たない理性的な魂,時間の「今」または「瞬間」,および一[単位]をわれわれは除外するためにも)エウクレイデスおよび幾何学者たちから,点と呼ばれる.

点とは「連続量,あるいは大きさにおいて」部分を持たないものである,という説明を繰り返して強調し,他の部分を持たない「魂」や「今」ないし「瞬間」,「一」を排除している.幾何学は,連続量したがって大きさに関する学であり,エウクレイデスはあえて説明していないのかもしれないが,クラヴィウスは誤解を招かないように説明を尽くしているのだろう.

Huius exemplum in rebus materialibus reperiri nullum potest, nisi velis, extremitatem alicuius acus acutißima, similitudinem puncti exprimere; quod quidem omni ex parte verum non est, quoniam ea extremitas dividi potest, & secari infinite, punctum verò individuum prorsus debet existimari.

最も細い針の先端のように,何か点に類似するものを表現したい場合を除いて,物質的なものではこのような[点の]例は見つけられない.実際,このことはすべての部分に当てはまるわけではない.その[最も細い針の]先端は,無限に分割したり切断したりできるのであるから,真の点は完全に不可分であるとみなされねばならない.
物理的な点は見出せないことを指摘しているが,これは原子論も復興された近世ではとりわけ重要なところである.デカルトおよびデカルト派,そしてライプニッツであれば,最も細い針の先端とはいえ,それは物理的なものであるから,拡がり(延長)をもち,したがって無限分割可能性を免れない.クラヴィウスは,「真の点は完全に不可分であるとみなされねばならない」として,点を「不可分者」に位置付けている.クラヴィウスは,ライプニッツのように,部分を持たないことから,不可分性を論理的に演繹しているわけではない.しかし,不可分者の概念に訴えることは,Dechalesに言わせれば,ゼノンのパラドクスの問題を想起させ,懐疑的になるざるをえないところである.他方で,クラヴィウスは,「真の点」は不可分でなければならないとしており,不可分性は点概念の不可欠の要件としてある.

Denique in magnitudine id concipi debet esse punctum, quod in numero unitas, quodque in tempore instans. Sunt enim & hæc concipienda individua.

要するに,大きさにおいては点が考えられねばならず,数においては単位(一),また時間においては瞬間が考えられねばならない.なぜなら,これらは不可分者(individua)と考えられるべきものだからである.

数における単位としての「一」や,時間における「瞬間」と同様に,大きさにおいて出発点となる不可分者として,「点」が考えられねばならないとしている.先の説明と合わせると,原理から問題(命題・定理)へという数学者の流儀,したがって,単純なものから複雑なものへという総合の方法の一環として,連続量における不可分者として点が最初に措定されねばならない,という理解が,クラヴィウスにはあるように思われる.