labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

アリストテレスと不可分者

授業でアリストテレスの連続論を扱ったが(講義資料リンク)、時間の制約上『生成消滅論』には触れられなかった。また、アリストテレスが「不可分者」について語っているところをこれまできちんと押さえていなかったのを反省し、理解を補うべくメモしたい。

読解メモ

第1巻第1章から読み始めたが、アリストテレスの観点が、あくまで自然現象一般を「性質変化」(質的変化)として統一的に説明したいがために、つねに同じものにとどまるところの基体を要請したのだということがよくわかる。生命現象である「生成/消滅」も物理現象である「物体の運動」も、この「性質変化」の一形態である。対して、古代原子論のような原子論的多元論者の観点からでは、生成を性質変化として描くことはできないので、性質変化として説明することに失敗する、という論調である。

「しかし、複数の始原を立てている人たちの語っているところによれば、性質変化するということはありえない。というのも、その点において性質変化が生じるとわれわれが言うところの諸性状は、諸々の基本要素の種差である」(314b17-19)

『自然学』もまたこのようなアリストテレスの根本的な考えに立脚したものであることを踏まえないと、物理学的な誤謬に満ちたものとしてあいまいな定義にもとづく不確実な議論をしているだけに映ろう。他方で、生物学者としてのアリストテレスは、再評価によってむしろその価値がまた見出されることになろう。

さて、アリストテレスが不可分者の存在について問うているのは、『生成と消滅について』第1巻、第2章の316b28以下。 

〔ここで「不可分者」と言われているのはアトモンつまり原子のことであるが、アトモンの原義にしたがって不可分者と訳されているようである。また以下、点として「微(点)」(セーメイオン)と「点」(スティグメー)という用語が出てくるが、後者が空間的点の意味で主に用いられるのに対し、前者は時間的な今つまり瞬間をも含む点概念とされる。〕

そこでは、性質変化が生じるのは、第一の諸事物が不可分な大きさをもって存在していることによるのか、それとも不可分割的な大きさなどというものは存在しないのかが問われる。前者にたつ原子論者(デモクリトス、レウキッポス)は物体とし、プラトンは『ティマイオス』で平面とした。アリストテレスは、物体を平面にまで分解することは不合理であるとし、さらに物体と単なる幾何学的な立体とを区別する。

「〔物体を〕平面にまで分解する人たちにとっては、性質変化と生成を考え出すことはもはや不可能である。というのも、それら〔平面〕が複合され〔つまり、一つに寄せ集められ〕ても立体のほかは何も生じないのである。なぜなら、それら〔平面〕からなんらかの性状を生み出そうという試みさえ、彼らは行っていないからである」(316a2-5)

アリストテレスは、物体が継起的な仕方で可能的に完全に無限分割されることや、同時的な仕方で完全に分割されうるという想定を受け入れる。(あくまで論理的な可能性としてであり、そのような分割は人間には不可能だろうともしているが)。

そこで、物体があらゆるところで可分的であり、実際にその完全な分割がされたとして、いったい何が残るかを問う。

まず、大きさをもったものが残ることは、決してありえない。物体すなわち大きさをもつものは完全に分割されうるという想定だったからである。

他方で、残っているものが物体でもなく大きさももたないものだとすると、〔a〕物体は大きさを持たない点から構成されているか、〔b〕構成するものが全くの無でなければならない。しかし、〔a〕、〔b〕いずれをとっても不合理。

一方で〔b〕は無から無を生むことにしかならない。

他方で、〔a〕物体が点から合成されているとした場合、物体は量をもちえない。

「なぜなら、点同士が互いにふれあい、一つの大きさとしてあり、一緒になっていたとき、それらの点は全体をいささかでもより大きくしたわけではなかった。というのも、大きさが二つないしはそれより多くのものに分割されたときにも、全体は、以前と比べてより小さくなることも、より大きくなることも、まったくなかったからである。したがって、たとえすべての点が複合されたとしても、それらが何らかの大きさを創り出すことはまったくないであろう。」316a30-34 

したがって、接触あるいは点〔したがって分割も含む〕によって大きさが構成されていることは不可能である。こうして、不可分割的な物体、つまり大きさをもったものが存在しなければならない。しかし、不可分割的な物体を前提すると、不合理が生じることは他のところでも論じた(『自然学』第6巻第1章)。

『生成消滅論』はそこでの議論をアップデートする。

アリストテレスはこの問題に対し、「可能態/現実態」の区別による解決を提案する(新訳では「可能状態/終極実現状態」)。

「およそ感覚されうる物体のすべてが、どんな徴(点)においても可分的であり、かつ分割されていない、ということは、何ら不合理ではない。というのも、〔この場合、〕物体が可分的と言われるのは可能状態としてであり、一方、分割されえないというのは、終極実現状態としてそのように言われることになるからである。」316b19-21

つまり、物体があらゆる点において同時的に分割されうるということは、可能態においても不可能なことである。可能であるとしたら、物体は非物体的なものに消滅してしまい、物体はふたたび、点から生ずるか、完全な無から生ずるかのいずれかになって不合理になる。他方で、物体を部分へと次第に分割していくとしても、現実的には限りなく行うことはできず、ある限度で分割は止まるだろう。

「したがって、物体の中には、必然的に、切断不可能な(原子的な)、目には見えない諸々の大きさが内在していなければならない。──とりわけ、事物の生成と消滅が、一方は結合〔集合〕によって、他方は分解〔離散〕によってそれぞれ起こるべきものであるとするならば、ことさらにそうである」。316b32-34

しかし、アリストテレスは不可分な大きさが存在することは不合理だとする。アリストテレスは「点が別の点に接続するということはない」と前提した上で、次のように議論する。すべてのところで可分的ということは、すべてのところに点が存在するということでもある。

「ある大きさについてすべてのところで可分的であるということが措定されるときには、任意のところに点が存在するというだけでなく、すべてのところに点が存在するとも考えられており、そこからして必然的に、その大きさは分割されて何ものでもないもの(無)になってしまう。なぜなら、その大きさのあらゆるところに点が存在し、結果として、大きさは諸々の接触からなるか、あるいは諸々の点からなる、ということになってしまうからである。」317a3-8

アリストテレスは、連続体が全体に渡って分割される場合、それぞれの分割される場所において、それらの点がすべてそれぞれ一つの点として存在する、とする。つまり、どの場所においても、点は一つより多く存在しない。しかし、このことは連続体の同時的な分割がありえないことを示す。なぜなら、もしそうでなければ、中心での分割は、中心に接する点においても分割されることになるからである。

「しかし、このような分割は不可能である。なぜなら、徴(点)が(徴)点と、あるいは点が点と接続することはないのではないからである。」317a11-12

こうしてアリストテレスは、生成・消滅が、アトムへの分解(離散)/アトムからの結合(集合)に依存する仕方での定義に尽くされないものであるとする。すなわち、連続体におけるアトム構造の変化が質的変化だとする原子論を拒否するのである。

コメント

  • 幾何学的点と自然的点を区別しておらず、物体ないし大きさに点が存在するということでいかなる想定がなされているのかが気になった。ここでの点は、〈幾何学的点と類比的な仕方で捉えられた物体に内在する場所〉、くらいに捉えるのがふさわしいようにも精一杯なところのようにも思われる。
  • アリストテレスは「点が別の点に接続することはない」(317a4)「点は次々に隣接して存在するのではない」(317a9)というように、点同士の接触を否定している。他方で、「かりに点と点が互いに接続していたとすれば」、原子の集合からの物体(大きさ)の合成や、物体のすべてのところでの分割が生じることも「ありえたであろうが」としている。
  • 興味深いことに、ライプニッツ幾何学的な点同士の接続からの連続体の合成も、連続体の点への分割も否定するが、時間的点すなわち瞬間(現在)の持続的時間への合成を認めている。その際、点と点の接続すなわち点同士の隣接を認めるのである(ライプニッツ『パキディウスからフィラレトゥスへ』[1676])。