labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

パースの連続体論(2. 『センチュリー辞典』より)

「連続性(Continuity)」の項目

(『センチュリー辞典』、1884年頃起草、1889年出版)

出典:Charles S. Peirce, Philosophy of Mathematics: Selected Writings, M. E. Moore (ed.), Indiana University Press, 2010, pp. 135-139.

【解説】

編者のM. E. Mooreによれば、この項目はパース自身の連続性の理論に対する意義はあまりない。ここでは、主にカントールの定義が解説されているからである。しかも、それは完全で正確な説明ではない。また、本文にはカントやアリストテレスへの言及があるが、これも後年の「精神の法則」(1892)における「カント性」や「アリストテレス性」に関する独自な分析を含むものではない*1

パースの連続性の理論の古典的時代区分は、Potter(1996)によって与えられている。それによれば、カントール以前(~1884)、カントール(1884~)、カント(1895~)、ポスト・カントール(1908~)と4段階に区別される。

Havanel(2008)はより綿密な説明を与え、次の5段階に区別した。すなわち、[1] 反-唯名論(1868-1884)、[2] カントール(1884~1892)、[3] 無限小(1892~1897)、[4] 超多数性(1897~1907)、[5] トポロジカル(1908~1913)。

いずれの時代区分にせよ、この「連続性」の項目が執筆された時期は、パースがちょうどカントールを読んで強い影響を受けた最初の時期に当たる。

ところでパースは、この「連続性」の項目に対して、1888年以降も継続的に考察を重ね、5つの注を付記している。ここではそれら注も訳出した。パースの連続体に関する思想の発展を裏付ける上では、これらの注の方が重要かもしれないからである。

Havanelの時代区分にしたがうと、注1は[2]、注2・注3が[3]、注4・注5が[4]である。

最初の注1では、カントールの定義についての説明を修正している。

注2では、「連続的線のうちにはいかなるギャップも存在しない」ことを連続性の適切性規準とする。すなわち、「ギャップがありうる場所はどこにもなく、それは点でもない」。線のどこかに点の穴が開いていたとする。しかし、線の一方の端から他方の端まで行くには、必ずこの点を通らなければならない。よって、一点のギャップでも、連続性の条件は満たされないのである。

パースはこの注2で、カントールの定義を批判しているが、それは「あらゆる」点に対するあいまいな指示を含むことにあった。しかしこれはフェアな批判ではなく、カントールは自覚的だった*2

とはいえ、パースの連続性の問題に対するアプローチは、ここに現れている。

パースは注5で、真の連続体のうちにギャップがないことを正確にする、完備性条件を要求する。これは、デデキントによる連続性に対する古典的アプローチと同じである。実際、デデキントは「切断」という手法によって、線上の有限点の間にあるあらゆるギャップを埋める、というアプローチをとった。

しかし、パースはデデキントの定義に「不壊性unbrokenness」すなわち真の連続性に不可欠なギャップの不在を認める一方、不壊性は、線を満たすのに十分な豊かな点集合を見出す要件ではないと考えるようになった。

またパースは、「任意の〔無限〕点集合が真の連続的線を満たすことができる」ということを否定した。1896以降、これがパースの基本的な信条となる。最後の2つの注は、このスタンスに立ち、その分岐と困難を展開する。そこでは、カントールデデキントが定義したような仕方では、点はもはや線の部分とみなされえないとしている。

注3ではカント性とアリストテレス性が言及される。これは「精神の法則」(The Law of Mind, 1892)を踏まえたものだと考えられる。しかしその10年後くらいに書かれたと推定される次の注4で、パースはカントの連続体の定義に関する自身の理解が誤っていたことを告白する。そして、パースは「カントの実在的定義は、連続的線がいかなる点も含まないことを含意している」とする。

パースは連続性の適切な理解として、カントの連続体の定義「そのすべての部分が同種の部分をもつようなもの」を上げる。例えば、線のすべての部分もまた、線である(点は部分ではない)。パースはカントの定義の意味を分析し、点が線の部分でないとしたら、点は線にどう関係するのか、説明しようとする。

注では、カントの定義についての理解を修正し、連続体における点と線の関係の困難と立ち向かうところまでの発展が伺える。 この困難の解決の試みから、パースは「可能的存在者possibiliaとしての点」という見解に至る。そして後の手紙では、基数についての考察からトポロジカルな連結という考えへとシフトすることになる。

 

『センチュリー辞典』、「連続性」の定義(1884頃)

【本文】

空間あるいは時間における部分の遮断されない連結(uninterrupted connection)、無遮断性(uninterruptedness)。

数学哲学においては、ある時間区間に属する諸瞬間ないし諸点の連結と同じくらい緊密な、諸点(ないし他の要素)の連結を言う。したがって、空間の連続性は、各瞬間においてある点が確定した判明な位置を空間のうちにもつように、その点が任意の一つの位置から任意の他の位置へと移動しうることに存する。しかし、この言明は、連続性の真の定義などではなく、単に時間から抽き出された例証化にすぎない。古い定義──共通の境界をもつ隣接する[2つの]部分(アリストテレス*3、無限分割可能性(カント)*4──は不十分である。より満足のいく定義はG. カントールの定義である。それによれば、連続性とは点のシステム[集合]*5完全連鎖(perfect concatenation)である。これらの用語は特殊な意味で理解されねばならない*6カントールは、次のとき、点のシステムが連鎖している(concatenated)と呼ぶ*7。すなわち、任意の2つの点が与えられたとき、また任意の有限な距離もまた与えられたとき、その距離がどれだけ小さくとも、有限個の他の点をそのシステムに見出すことが常に可能である。すなわち、その各々が与えられた距離よりも小さい、継起的なステップによって、与えられた点のうちの一点から他の点へと進むことができるであろう。カントールは、次のとき、点のシステムが完全である(perfect)と言う。すなわち、何であれ、システムに属さない点が与えられたとき、その与えられた点の距離のうちに、そのシステムの無限個の点が存在しないような非常に小さい有限距離を見出すことができる。完全でない連鎖システムの例として、カントールは任意の区間における有理数および無理数を与える。連鎖でない完全システムの例として、彼はその10 進少数展開において、どこまでいっても、0および9以外のいかなる数字も含まないようなあらゆる数を与える。*8

 

注1(1888-1892年頃)

 ここで私は完全システムに関するカントールの定義をほんの少し修正した。すなわち、彼は、それがある無限個の点の近傍に含まれるすべての点を含むもので、かつそれ以外を含まないものとして、それを定義する。しかし、後者は連鎖システムの特徴である。したがって、私はそれを完全システムの特徴から省く。*9

 

注2 (1892年頃)

 カントールの連続性の定義は、「すべての」点に対する曖昧な指示を含むので、不十分なものである。また、人はそれが何を意味するのか知らない。それは、私には次のことを指すように思われる。すなわち、二つの次元なしには連続性の観念を得ることは不可能である、ということである。卵形線は連続的である、なぜならそれは、その曲線のある点を通過することなしには、内部から外部へと渡ることが不可能だからである。

 

注3 (1893年頃)

 上述したことを書いた後、私は新しい定義を作った。それにしたがえば、連続性はカント性アリストテレスに存する。カント性とは、任意の2点のあいだにある点をもつことである。アリストテレス性とは、システムに属する諸点の無限級数に対して極限となるような、すべての点をもつことである。

 

注4 (1903年9月18日)

 しかしこの主題のさらなる研究によって、この定義が誤っていることが証明された。その定義は、カントの定義の誤解を含んでおり、彼自身も同様に陥ったものである。すなわち、彼は連続体を、そのあらゆる部分が同種の部分を持つものとして定義する。彼自身は、そして私もまた、それが無限分割可能性を意味すると解した。しかしそれは明白に連続性を構成するものではない。というのも、有理分数値の系列は無限分割可能だが、誰によっても連続的とみなされないからである。カントの本当の定義は、連続的線がいかなる点も含まないことを含意するものである。今、連続性の常識的観念を受け容れるとすると、(そのあいまい性を修正し、何かを意味するように固定した後)連続的線はいかなる点も含まないか、それらの点について排中律が成り立たないか、いずれかを主張しなくてはならない。排中律はある個体にのみ当てはまる(というのも、「いかなる人も賢い」も、「どんな人も賢くない」も、どちらも真ではないからだ)。現実存在を欠く単なる可能性であるような場所は個体ではない。したがって、点あるいは不可分な場所は、もしそれがあれば、連続性を遮ることを徴づけるような、何かあるものが現実的に存在しない限り、存在しない。したがって、カントの定義は、常識的な観念を正確に定義していると私は考える。ただし、その定義には大いなる困難があるのだが。私は確かに次のように考える。すなわち、常識的な観念にしたがえば、何であれ任意の線上には、任意の個数の(それがどれだけ大きくとも)点に対する余地が存在する。もしそうならば、函数の理論における解析的連続性が、そこで含意しているものは、無際限に多くの数の場所に対して実行された10進数展開によって、無際限に近い近似にまで表現可能なある量によって定義される、原点からの各々の距離に対する単一の点にほかならず、それは常識的な連続性では確かにない。なぜなら、そのような量の大きさ全体は、第一の超数的多(first abnumeral multitute)*10にすぎず、より高次の段階の無限系列が存在するからである*11

 

注5 (1903-1904頃)

 「連続性」は続く。それゆえ、概して私が考えるに、連続性とは、壊されていない空間ないし時間の諸部分の関係であると言わねばならない。精確な定義は、依然として不確かである。しかし、連続体とはそのすべての部分がそれ自身同種の部分をもつものであるというカントの定義は、正しいように思われる。この定義は、無限分割可能性と混同されるべきではない(カント自身が混同したように)。それは、線が、たとえば、点をマークすることによって連続性が壊されるまで、いかなる点も含まないということを含意する。このことにしたがって、連続体は、それが連続的であり不壊な場合、いかなる確定的部分も含んでいないと言うことが必要であろう。微積分と関数の理論においては、任意の2つの有理点(あるいは有理分数によって表現された線上に距離をもつ点)のあいだに、有理点が存在する。またさらに、そのような分数点のすべての収束級数に対して(たとえば3.1, 3.14, 3.141, 3.1415, 3.14159, etc.)、ただ一つの極限点が存在する。そして、そのような点の集まりは連続的と呼ばれる。しかしこのことは連続性の常識的観念であるとは思われない。それは独立点のあつまりにすぎない。砂粒をさらに壊すことは、その砂をさらに壊すだけである。それは、砂粒を不壊の連続性へと接合することはない。

 

*1:Jimmy Aames氏の指摘に、この場を借りて感謝する。

*2:[編者注]パースはこの点に関してカントールを批判する。しかしMyrvoldが指摘するように、その批判はアンフェアである。カントールは、連続的点集合を、n次元多様体Rn(すなわち、実数の集合Rのn乗デカルト積)のうちに定義すると明晰に述べている。

*3:[編者注]『自然学』V.3.227a10-12、『形而上学』XI.11.1069a5

*4:[編者注]『純粋理性批判』A169/B211

*5:[訳注]システム(System)は、デデキントが現代で言う「集合」の意味で用いた概念(「数とは何か、また何であるべきか」1888年, §4)。カントールはMengeを集合の意味で使うが、それ以前には、Inbegriff(総体)やMannigfaltigkeit(多様体)という用語も集合の意味で用いた。

*6:[編者注]「一般集合論の基礎」Grundlagen einer allgemeinen Mannigfaltigkeitslehre, 1883.[英訳:W. Ewald,From Kant to Hilbert, Vol. II, pp. 878-920.]パースの完全集合の定義は、カントールのそれとは異なる。点pを点集合Sの極限点と呼ぶのは、pのすべての近傍がSの無限に多くの点を含む場合である。したがって、パースの定義によれば、Sが完全なのは、そのすべての極限点を含むときに限る。他方で、カントールは完全集合を、そのすべての極限点を、そしてそれらのみを含むものと定義する。

*7:[訳注]デデキントもまた、「数とは何か、また何であるべきか」§4において、「連鎖」という概念を踏襲している。

*8:[編者注]最初の2つの例は、カントール(1872, 98)から導かれていよう。二番目の例は、カントールがCantor(1883, 919)で定義した3つ組集合の変奏である。

*9:[編者注]ここで、パースはカントールの完全集合の定義から半分「のみ」を省いたことを認める。しかし、省かれた条件は、パースが主張するほどには余計なものではない。すなわち、ただ一つの要素しかもたない点集合はトリヴィアルに連鎖しているが、その要素はその集合の極限点ではない。もし連鎖集合が少なくとも異なる2点を含むものと規定することで、そのようなトリヴィアルな事例を排除するならば、パースの観察は正しい。トリヴィアルでない連鎖集合は、極限点のみからなる。なぜなら、任意の2点のあいだに、ある任意に微細な点を置くことができるからである。この注を書いたときにはパースはおそらく、この規定を当然のこととして語っていたのであろう。

*10:[訳注]「非可算濃度」と同義だが、パース独特の用語でもあるので、ここでは「超数的多」と訳した。

*11:[編者注]実数の濃度が第一非可算濃度であるとするこの想定は、カントール連続体仮説にほかならない。