labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

パースの連続体論(1. SEPより)

12月半ばに体調を崩し、ほぼ回復した年末年始には、子守と家族イベント、そしてその疲労と息抜きでほとんど何もできず、いつのまにか新年を迎えてしまいました。明けましておめでとうございます。ブログはおろか、仕事がいろいろ滞っており、焦ってばかりいます。ブログをうまく仕事や研究の進展に使っていきたいところですが・・・。

さて、連続体の哲学に関する授業準備のため、Stanford Encyclopedia of Philosophy(SEP)より、パースの連続体論について書いてある記事を雑に抄訳してみました。元の文章をアレンジしたり、自分用に加えた脚注があります。

Burch, Robert, "Charles Sanders Peirce", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2018/entries/peirce/>.

6. 連続主義、連続体、無限、無限小

  パースは、カントールデデキントと並び、実無限集合の存在を擁護し、また無限集合の考えについてボルツァーノが関連づけたパラドックスがまったく矛盾ではないと主張した、最初の科学思想家であった。【パースは実無限を擁護】

 パースにおける有限集合/無限集合の区別は、いわゆる“syllogism of transposed quantity”(STQ)による。これは、ド・モルガンによって導入されたもので、有限集合に適用された場合にのみ演繹的に妥当な論証を構成するものである。無限集合の場合は、これが必ずしも妥当にならない*1

 STQは次のようになされる。二項関係Rが集合S上に定義されていて、二つの前提1, 2が関係Rについて成り立つとき、3が結論される。

  1. すべてのxについて、あるyが存在し、Rxy。
  2. すべてのx, y, zに対して、RxzかつRyzならば、x=y。
  3. すべてのxに対して、あるyが存在し、Ryx。

このSTQについて、パースはちょっと不謹慎な、次のような例を挙げている*2

  1. 「すべてのテキサス人はあるテキサス人を殺す」
  2. 「どのテキサス人も一人以上のテキサス人によって殺されることはない」
  3. 「すべてのテキサス人はあるテキサス人によって殺される」

パースが好んで用いるこの例では、テキサス人の集合が有限な場合にのみ、結論は妥当に導かれる*3

もし、STQのRxyとしてf(x)=yをとったら、第二の前提はfが1-1関数だということを述べている。そして結論は、Sのどの要素もSのある要素についてfの像になっているということを述べている。こうして、STQは、いかなる1-1関数も、集合Sをそれ自身の真部分集合に写像できないということを述べている。

したがって、有限集合と無限集合の間の差異に関するパースの定義は、実質的に標準的な定義と同値である。デデキントの「数とは何か、また何であるべきか」§5では、無限集合はそれ自身の真部分集合と1-1対応になりうるものとされていた。【パースは、1対1対応について、デデキントと同じ考えを採用。】パースは実にデデキントより6年前に、有限集合と無限集合の差異に関する自身の定義に至っていたのである。

 パースは、空間や時間、理念化、感情、知覚の連続性は、学問の還元不可能な産出であり、そうした諸連続体についての適切な考えは、あらゆる学問において極めて重要な部分をなすと考えた。

「連続主義synechism」と彼が呼ぶ連続性の理論は、「共に(一緒に)」を意味するギリシア語の前置詞に由来する。1892年半ば、いくぶんカントールの著作を読んだ影響のもと、パースは、(線型)連続体を、線型順序をもつ無限集合Cとして定義した。すなわち、

  • Cの任意の2つの異なる要素に対して、厳密にこれらの間にあるCの第3の要素が存在する。[稠密性/カント性]
  • Cのすべての可算な無限部分集合で、Cのうちに上限(下限)をもつものは、Cのうちに最小上界(最大下界)をもつ。[閉性/アリストテレス性]

パースは前者を「カント性」、後者を「アリストテレス性」と呼ぶ*4。今日の数学では、前者を「稠密性」、後者を「閉性」と呼ぶ。後者の条件は、「連続体はそのあらゆる極限点を含む」という系をもつが、パースは連続体を定義するため、この性質を「カント性」と併せて用いる。

 しかし、19世紀末になると、パースはカント性とアリストテレス性では、たとえ両方を併せたとしても、連続体の概念を適切に定義するには不十分だとみなすようになった。そしてパースは、カントールの考えに対していくぶん距離を置くことで、連続体の新しい考えを編み出したと主張した。

パースは、少なくとも一見、カントールのパラドクスに陥りそうな感じで書き出した。しかし、パースは、線上の諸点の同一性についてのある種の非-標準的(超準的)な考えをとることで、あからさまな矛盾を避けようとした。

たとえば、1898年のケンブリッジ・カンファレンス・レクチャーの第3講義では、もし線が2つの部分に切られたとしたら、切断が生じた箇所の点は、現実的に2つの点になる、と述べている*5【パースの非標準的な点と連続体の解釈】

パースの新しいアプローチが、その数学的詳細においていったい如何なるものであるのか、またそれは隠れたしかし真なる矛盾を含んでいるのかどうかは、現在のところ未解決の問題である。

パースの連続体の新しい考えと結びつくのは、無限小量の実在性に関する理論を彼が頻繁に、ときには好戦的なまでに擁護していることである。この理論は、19世紀終盤までパースによって新しく取り上げられなかった。実際、彼はその理論をしばらくの間支持していたが、それは父ベンジャミンの理論だった。

彼は、無限小の理論が微積分学の基礎を与えるものとして、より新しい極限の理論よりも優っていると考えた。新しいのは、パースが無限小の理論を連続体のアップデートされた理論の鍵として見始めたことである。こうしてパースは、無限大の擁護に加え(パースはmultitudesという用語を用いる)、無限小を精力的に擁護するようになった。【パースは実無限大と共に実無限小を擁護】

そうした擁護の多くの事例を見つけることができる。たとえばパースは、「私の個人的意見では、無限小の実在的存在に関する肯定的証拠が存在する。また無限小の認容は、微積分の入門をかなり容易にするであろう」と述べている。

19世紀の終わり頃では、パースの無限小に対する見解は極めてレアなもので、注目に値する。イタリアを除けば、パースは無限小の存在を信じた事実上唯一の数理哲学者であった*6

 パースは無限小を擁護しただけではない。彼はさらに、無限小を実数の体系に導入することの無矛盾性を証明したと主張した。すなわち、0と等しくないが、いかなる実数r≠0よりも小さい無限に多くの対象が存在する、新しい体系をつくる仕方によってである。現代的な用語を用いれば、パースは非アルキメデス的順序体の存在を証明したと主張した。真の連続体とパースが呼びたかったのは、こうした非アルキメデス的体のことであった。【パースは実数の体系を拡大し、無限小を導入した非アルキメデス的順序体の存在を証明したと主張】

加えてパースは、ガウス以前の伝統的な定義を正当化するために、そして微分計算の基礎を強化すために、彼の無限小量の概念と連続体の改訂された概念を用いたかった。パースはまた、こうした企てとの関連で、連続体内の点に関するトポロジーについて新しい考えをもっていることを示唆する多数の言明をしている。

こうした言明のすべてを、パースは無限集合に関する先の擁護と結びつけた。これらの理由から、何人かのパース研究者、とりわけCarolyn Eiseleは、パースの考えはロビンソンの超準解析(1964)を予期させるものだとした。

しかし、このことが実際そうであろうとなかろうと、現時点では解明されたと言うには程遠い。たしかにパースは、標準実数の可算無限デカルト積の同値類を用いて、それからLoś の定理を適用することで、順序体の理論の非標準的モデルを構成することを示唆する言明を多く述べている。しかし、現在までのところ、この分野におけるパースの思考を慎重かつ綿密に説明した注釈者は誰もいない。

不幸なことに、このトピックに関して公刊されたパースの著作や公開講演のほとんどは、数学的にまったく洗練されていない聴衆のためにデザインされたものであった(彼が嘆いた事実)。この理由のため、パースがこのトピックについて述べたことのほどんとは、魅力に溢れ、興味をそそられるものであるが、極めてあいまいである。パースの無限小概念に関する分析全体は、彼の無限小概念と彼の実連続体に関する概念および連続体の点のトポロジーに関する考えとの厳密な関係と同様、極めて注意深い数学的議論が依然として待ち望まれている。【パースの連続体論の数学的解明という課題】

 

 

*1:STQがある無限集合について成り立たないことは簡単に示せる。Sがある無限集合、たとえばN(すべての自然数の集合)だとする。Rxyとしてy=x+1(successor)をとる。 この場合、1, 2の前提が満たされる。 しかし、x=0(自然数が0から始まるとして。お好みなら、自然数が1から始まるとして、x=1をとってもよい)をとれば、0=y+1を満たすyはNのうちにはない。したがってこれは結論3の反例となり、STQは成立しない。

*2:パースは他の箇所で、「全体は部分よりも大きい」を例に挙げている。Philosophy of Mathematics: Selected Writings, p. 148.

*3:たとえば、3人のテキサス人A, B, Cを考えてみる。AがBを殺し、BがCを殺し、CがAを殺すとすると、STQが成立する。しかし、時系列を考慮するならば、最後に殺した一人が生き残ってしまい、前提(1)が満たされないことになる。時系列を無視するならば、あるいは全員が同時に相手を殺したならば、STQが成立することが可能である。

*4:The Law of Mind (1892), in Philosophy of Mathematics Selected Writings, pp.144-153.〔この典拠について、Jimmy Aames氏のご教示にこの場を借りて感謝する〕; NOTE 3 (CA. 1893) of `Continuity' in the Century Dictionary, Philosophy of Mathematics Selected Writings, p. 137.

*5:Reasoning and the Logic of Things, p. 159.

*6:19世紀末頃に、実無限小を擁護したイタリアの人物は、おそらくGiuseppe Veronese (1854-1917)。