labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

A. ヴァルツィ「境界」(Stanford Encyclopedia of Philosophy)[翻訳]

SEPにある、ヴァルツィの「境界」を翻訳してみました(抜粋や参考文献、リンク等の部分は除く)。

授業資料用に翻訳したものです。また、境界の問題は、連続体の哲学をめぐる、自分の研究関心の比較的中心にあるので、自分用に翻訳を思い立ったところもあります。

しばらくgoogleドライブの方に置いておきますので、ご参照いただければ幸いです。

A. ヴァルツィ「境界」(翻訳:池田真治)

 

誤訳等、ご指摘いただけましたら幸いです。さわりの部分だけ、ブログの方にも載せておきます。

 

A. ヴァルツィ「境界」

池田真治(翻訳)

出典:Varzi, Achille, "Boundary", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2015 Edition), E. N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/win2015/entries/boundary/>.

[最終更新:2020/06/04]

 私たちは、周囲から区切られた存在物[entity]を考えるときはいつでも、境界を考える。例えば、メリーランド州ペンシルバニア州を隔てる境界(線)がある。円盤の内側と外側を隔てる境界(円)がある。このりんごのかさ〔体積〕を囲む境界(面)がある。時々、境界の正確な位置[location]が不明瞭であったり、論争的なものであったりする(エベレスト山の縁や、あなた自身の体の境界をなぞろうとするときでさえも)。境界が何らかの物理的な不連続性や質的な差異に曲げられていることもある(ワイオミング州の境界や、同質な球体の上半分と下半分の境界のように)。しかし、鮮鋭であろうとぼやけていようと、自然的であろうと人為的であろうと、すべての対象には、世界の他の部分からそれを切り離す境界があるように見える。出来事にもまた境界がある──少なくとも時間的な境界がある。私たちの人生は、生まれた時と死んだ時に限界づけられている[bounded]。サッカーの試合は午後3 時きっかりに始まり、午後4 時45 分に審判の最後のホイッスルで終わった。概念や集合のような抽象的な存在物でさえも、それ自身の境界があることが示唆されることがあり、ウィトゲンシュタインは、私たちの言語の境界が私たちの世界の境界であると強調的に宣言することができた(1921: 5.6)。しかし、このような境界語りがすべて整合的かどうか、また、それが世界の構造を反映しているのか、それとも単に私たちの心〔精神〕の組織化的活動を反映しているだけなのかは、深い哲学的論争の問題である。

  1. 問題点

1.1 所有境界対未所有境界

1.2 自然的境界対人為的境界

1.3 鋭い境界対曖昧な境界

1.4 体なき境界対かさばった境界

  1. 諸理論

2.1 実在論者の理論

2.2 消去主義者の理論