labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

抽象と直観(1)

稲垣良典『抽象と直観』を読み始める(再読だが、きちんと読むのはこれがはじめてかもしれない)。

抽象と直観―中世後期認識理論の研究

抽象と直観―中世後期認識理論の研究

直観については、たとえばゲーデルパーソンズの研究が、また、抽象については、たとえばネオ・フレーゲアンたちの研究があるように、抽象と直観は、まさに数学の哲学において、もっとも重要なテーマの1つと言ってよいかもしれない。

もっとも、抽象と直観は、哲学史的にみれば、認識論および形而上学の文脈で、中世および近世において問題となった、中心テーマであった。そして、デカルトにおいて、抽象から直観へという方法の転換を見たことは、これまで近代という時代を特徴付けてきた、重要な事件であると言ってよいだろう。そして何よりもカントにおいて、直観は、空間と時間という感性の直観的形式というかたちで、われわれの認識にとってもっとも根本的なものとして、華々しく登場する。

しかし、本書は、そうしたステレオ・タイプの近世における認識論的転回に対して、哲学史的な反省をせまるものである。

稲垣は、オッカムの認識理論が驚くほど近世哲学の認識理論と連続性をもち、「こと認識理論に関するかぎり、時代を大きく分ける一線は17世紀ではなく、14世紀前半のどこかに引くべきである」とする。

すなわち本書は、「抽象」を基本概念とする形而上学的認識理論から、「直観的認識」を出発点とする新しい認識理論によって置き換えられたこと、そして近代の認識理論は基本的にオッカムによって拓かれた道にそって展開されたものであることを、示そうとしている。

直観的認識に基づく理論を採用したということは、それまで中世哲学で議論され続けてきた、可知的形象species intelligibilisを排除する、ということである。可知的形象とは、おおざっぱには、可感的対象が感覚に受容され可感的形象として表現されるが、それが共通感覚あるいは想像力を介し、知性によって抽象されたものである。

すなわち、抽象に基づく認識理論というのは、具体的な感覚的対象がわれわれの知性によって抽象的に認識されるまでに、こうした段階的な手続きを経て「媒介的に」認識されるものだ、ということを含意する。これに対し、デカルトやオッカムの直観的認識の理論は、ある無媒介的=直接的認識の可能性を示唆するものである。

哲学的な観点から重要なことを読み取るためには、間接的認識理論を部分的に排し、ある直接的認識の理論をとることのメリットとは何なのか、またその問題点や限界は何かが、本書を読む際に考えられねばならないだろう。

近世哲学の認識理論の意義をより正確に理解するためには、こうした中世、バロック・スコラ哲学における認識理論を踏まえなければならないことは、言うまでもない。その意味で、本書のような、哲学史の本質をつく研究が邦語で読めるというのは、近世哲学を研究するものとして、喜ばしいかぎりである。