抽象と直観(3)
稲垣良典『抽象と直観』
- 第二章「トマスの霊魂論ーー自己認識の問題」
をざっと読む。
トマスにとって、認識のパラダイムは神的認識であり、人間精神の自己認識は、神および天使における自己認識をよりどころとせねばならないものであった。
トマスによれば、神は自らを完全に認識する。その論証はいくつもあり省略せねばならないが、可知的形象や現実態、存在・本質そして一の概念などが鍵となって、可知的形象と神的本質および神的知性とが現実態において一であるとか、神において存在と認識とが同一であるといったことから論じられている。この「神が自己自身を自己自身によって認識する」、というトマスの見解は、たとえばスピノザの実体の定義にも現れており、近世においても基本的な理解であろう。
さて、神的認識の場合、認識されたものは認識する知性とまったく同一であるから、神的認識はつねに自己認識である。それは、「神が純粋現実態actus purusである」ことから導きだされている。しかし、この命題の意味は秘められたままで、以降、大きな議論を呼んだことは良く知られている。
トマスの神の自己認識の議論のライプニッツとの関わりで注目すべきは、存在esseと一性unitasとの同義性であろう。ライプニッツはこれを個体のレベルに落として「存在=一」をいわば公理のようなものとして考えている(アルノー宛書簡)。
天使的認識との比較も重要である。なぜなら、それを通じて、人間は純粋精神として非質料的な認識活動をしているわけではなく、質料あるいは身体を介して認識することが洞察されるからである。
トマスの認識概念は、神的認識をモデルにして、天使、そして人間へと下降的に理解されることには注意が必要である。トマスにとって認識するintelligereとは知性ないし知的実体の完全性perfectioであり、現実態においてある知性である。知性と可知的なものintelligibileが現実態において一であるとき、認識が生じる。
神的知性と異なり、天使においては認識の働きは自らの存在(したがって本質)と同一ではない。また、人間的認識の場合、認識するものと認識されるものとのあいだに能動と受動の関係があること、および、認識の過程で人間知性が可能態から現実態へと動かされることが、経験的に確かめられる。逆に、能動知性が感覚的表象に能動的に働きかけて、現実に可知的であるところの対象を作り出す、すなわち抽象することも経験的に確かめられる。能動と受動は知性と可知的なものが現実態において一になるために必要な準備作業であるが、知性と可知的なものintelligibileが常に現実態において一である神ではこうした能動/受動の運動が介入する余地はない。
つまり、能動/受動は認識の本来的要素ではなく付帯的条件にすぎず、あくまで人間認識に固有な要素でしかない。このように、能動/受動はトマスにおいてあくまで認識の付帯的条件であるが、ライプニッツの体系では、むしろモナドの二大原理である欲求/表象や、力の本来的性格として前面に出てくることになろう。
さて、トマスによれば、人間精神が自らの本質の認識到達するのは、可感的質料的事物の認識がそれによって成立するところの可知的形象を介してでなければなされないとする。では、なぜ形相である人間精神は、自らの本質を直接直観できないのか。
それは人間精神が、純粋可能態potentia puraであり、したがって未完成態にある、という位置づけにもとづいている。すなわち、人間精神は可能的に可知的であるにすぎない。人間精神は知的実体として自己認識の能力を持つが、身体と結びついている現実の生においては、外から何らかの根源が付加される必要がある。この未完成態としての人間や身体性の問題は、ライプニッツのモナドが純粋な心的実体であるにもかかわらず、身体における表象と不可分であるとしていることと付き合わせて考える必要があるだろう。トマスでは、人間精神は知的実体のうちでは最低の位置にあり、身体との結びつきで感覚的認識を必要とするのであり、したがってその認識はまず可感的・質料的事物へと向かう。ライプニッツにおいては、その表現において差異をもたらすものが、まさに身体であり、各々の身体における表現には、無限の程度差がある。そしてこれが、世界に多様性を与える根拠となっている。ライプニッツにとって、この無限の多様性は、神ならば実現するはずのものである。
可知的形象とは、それによって知性が認識するところのものである。言い換えると、知性が非質料的な認識を持つことが可能となるように、その場所を認識の枠組みに与えられているものである。知性は、可知的形象を受け取るものだが、トマスによると、この可知的形象を通じて、われわれは知性そのものを、あたかも形相を通じて質料が認識されるような仕方で認識する。