labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

抽象と直観(2)

続いて、

  • 稲垣良典『抽象と直観』第一章「霊魂論の崩壊と認識理論の変容」

についてまとめていきたい。


オッカムは、カントのいわゆるコペルニクス的転回を先取りしていた。「対象がわれわれに与えられるのは感性的直観においてのみである」とするカントの主張は、オッカムにおいて、それまでの認識理論の徹底的批判として先取りされていた。

このことを見るために、稲垣は、アリストテレスアウグスティヌス、トマス、スコトゥスの霊魂論の基本的性格を描写する。


1. アリストテレスの『デ・アニマ』における基本的立場

それは、「霊魂(プシュケー)は身体の形相forma corporisである」としてスコラに受け容れられた考えである。(アリストテレスにおいて、霊魂は認識の原理であるとともに、生命の原理でもあったことに注意。)霊魂は、「可能的に生命をもつ自然的物体の形相」「可能的に背名をもつ自然的物体の第一の現実態(エンテレケイア)」「自然的・有器官的物体のの第一の現実態」とよばれるように、霊魂は身体と区別された何かある実体として考えられているのではなく、むしろ、生命ある自然的物体の「何であるか」が問われているところの当体、本質(ウーシア)である。

問題は、理性(ヌース)すなわち理論的能力と霊魂の関わりであろう。
感覚は「感覚的対象のもつ形相をそれの質料を抜きにして受けいれることのできるもの」である。そして、感覚されるものと感覚は現実態において1つであるとされる。理性の部分を身体から分離して考えることができるとしているとき、アリストテレスは自然学の領域[すなわち経験的に明らかになるところの領域]を超えている。

他方で、理性は感覚的表象像[パンタスマタ]なしにはけっして思惟しえない(このテーゼは、ライプニッツにおいて記号的形象なしには思惟しえないというかたちで受け継がれよう)。このとき、理性も含めて霊魂は身体の形相であるという基本的立場が一貫されていると言えるが、では理性は霊魂とどのように結びついているのか。このことをめぐって様々な論争が起きたが、その問題には踏み込まない。

アリストテレスは、観察される事物の「何であるか」を問うかたちで自然学の方法によって霊魂論を展開したが、こと感覚および理性の認識については形而上学を導入するものであった。しかし、アリストテレス自身は形而上学的霊魂論を理論的に展開しておらず、その場所について洞察したのはアウグスティヌスの霊魂論であった。


2. アウグスティヌスの霊魂論の基本的立場

霊魂論は、アウグスティヌスでは、自然学的方法によってではなく、一貫して精神の自己認識として展開されている。一見、そこには、「私が考える」という自己意識の根源的明証性から出発するデカルトの方法との著しい類似が認められる。「もし私が欺かれているなら、私は存在する」(『神の国』)。

しかし、アウグスティヌスは、カントが批判した霊魂論がそうであったように、「私は考える」という命題の上に精神の自己認識としての霊魂論を構築したわけではない。というのも、自己認識としていうときの自己とは、精神animus, mensそのもののことであり、自己が自己として知られているわけではないからである。自己と精神そのものの違いはややこしいが、「精神が自らを何らかのものたとえばある具体的素材によってできているものと「思いなす」putare, opinare, existimareこと」が自己であり、「自らが存在し、生き、知解していることを「知る」scireこと」が精神である。

こうして、アウグスティヌスにおいて、自己認識は、精神が誤って自己として思いなしたものどもを自己から取り除き、精神自身を知ることによって行われる。

こうなると、アウグスティヌスの精神の自己認識としての霊魂論は、「知る」scireの意味が明確にできるかにかかっているといえよう。

このようなアウグスティヌスの立場を、トマスは精神が自己を自己の本質によって直接的に認識することは、天使や神ならばともかく、人間精神にとっては不可能であると批判する。トマスにとって、人間精神による自己認識は不完全であって、自己をその本質によって直接に認識するのではなく、まず外的事物を認識し、その認識の働きを通じて現実に可知的なものとなった知性自身が認識される、という仕方で自己認識が成立する。


3. トマスの霊魂論の基本的立場

トマスは霊魂を、一方で、身体の形相あるいは生命ある自然的物体として捉え、他方で、「自存する或るもの」あるいは「この或るもの」として捉える。すなわち、アリストテレスアウグスティヌスを綜合した霊魂論の立場をとる。霊魂は、自体的に自存するものとして「この或るもの」であるが、それ自体では本来的な「この或るもの」すなわち実体の類に属する個体individuum in genere substantiaeではなく、むしろ身体の形相として人間本性を完成するものである。言い換えると、身体の形相である霊魂は、知的実体として自らを完成するために、身体と結びついて複合体を形成する [トマスにとってこの複合体が、完成された個体的実体?]。

ところで、この複合は、身体が霊魂の存在を分有することによって実現されるので、霊魂に固有な存在esseが、複合体全体の存在を規定していることになる。このトマスの存在esseに関する独自の見方について、スコトゥスが批判し斥けることとなる。

このように、トマスは、事物の本質essentiaないし本性認識については、アリストテレスの「身体の形相」としての霊魂という立場をとり経験的な対象認識から霊魂とは何かの探求をはじめるが、事物の究極的現実態としての存在esseが問われたときには、アウグスティヌスの「自存するこの或るもの」としての霊魂という立場をとり、かれ独自の形而上学的霊魂論を確立する。

霊魂の不可滅性の論証は省略するが、その核心は、無条件的かつ超時間的に存在を捉える知性の働きそのものが、人間霊魂の超時間性したがって不可滅性を明示するものであることの洞察に存する。この洞察は、人間霊魂の不可滅性の洞察であると同時に、人間霊魂が事物の究極的現実態としての存在が問われる場所であるという洞察でもある。


4. スコトゥスの霊魂論の基本的立場

スコトゥスは超感覚的な知性認識する働きintelligereの固有性を洞察し、そこから知性的霊魂の認識に到達していたものの、人間霊魂が自らに固有の存在によって自存するというトマスの主張を否定する。したがって、スコトゥスは、霊魂の不可滅性は論証不可能であるとした。

彼は超感覚的な知性認識が形相的にわれわれのうちにあるが、そのような働きを実体と同一視することは不可能、とする。知性は働きにおいて不可滅であるが、無条件的に不可滅というわけではない。したがって、そこからは、知性的霊魂が、可滅的複合体から存在において独立であること(実体の要件)は満たされえず、よって霊魂の不可滅性は論証されない。

スコトゥスにとっては、霊魂の自体的存在は、自然的理性によって証明することはできず、ただ信仰によって肯定されることに属する。彼にとって、厳密な意味で自体的に存在するものper se ensは、複合体のみであって、知性的霊魂はある限られた意味で自存するにすぎない、完全性を欠くものである。

こうして、スコトゥスにおいて、自然的理性の観点から、トマスの形而上学的認識論におけるトマス的存在esseが斥けられ、ふたたびアリストテレス霊魂論の自然学立場と似た、自然学的霊魂論への方向が選ばれた。


5. オッカムの霊魂論の基本的立場

オッカムは、「知性的霊魂が身体の形相であることは論証可能か」を問う。そして、「オッカムの剃刀」によって、否定的に答える。

まず、スコトゥスの議論とされるものについては、2つの難問があるとする。第一に、知性的霊魂が身体の形相ではなかったらどうやってわれわれはそれを知性認識しうるかについては、櫂と漕ぎ手の類比によって解されるように、身体としてのわれわれが知性的霊魂によって知性認識する、という言い方には問題がないとする。第二に、知性認識intelligereを知的実体に固有の働きとした場合、知性認識を理性ないし経験によって明証的に知ることができるかについて、オッカムは、知性的霊魂を非質料的・不可滅的形相の意味に解するかぎり、できないとする。

というのも、オッカムは、「知性的霊魂は身体の形相である」というアリストテレス・トマス・スコトゥスらが前提としてきたスコラ的霊魂論の基本命題を、排除するからである。

その基本命題が論証不可能である理由について、オッカムは、自然的理性にしたがう人間にとってそのことを証明する議論はすべて疑いの余地があり、また、経験がそれとは異なる非質料的な形相へと導くこともありえない、とする。したがって、基本命題は、経験によっても、理性によっても論証されない。

このように、オッカムは、人間霊魂に関する探求を、経験的に確証されることがらにのみ限定し(オッカムの剃刀)、知性的霊魂にかかわることは、自然的理性によっては知られえないとし、すべて信仰の領域に移された。


以上、トマスの形而上学的霊魂論がスコトゥスの自然学的認識論を経て、オッカムの経験的霊魂論によって完全に崩壊するに至った過程を概観してきたが、この過程には、人間における知性認識を抽象にもとづいて解明するトマス的認識理論が、直観的認識notita intuitivaを中心に据える新しい認識理論によって置き換えられていく過程が正確に対応している。

こうして、アリストテレスアウグスティヌスを経て、トマスが確立した形而上学的霊魂論の崩壊は、知性的霊魂が理論的認識から除外されることを意味し、代わりに、対象が作動因として認識主体に直接に働きかけることで成立する、直観的認識の理論がースコトゥスにおいては限定的に、オッカムにおいては中心的にー立てられることになったのである。

最後に、中世後期の認識理論の変容を見ることによって、稲垣はカントにおける直観の概念を批判的に考察する視点を獲得できるとするが、同様に、近世哲学の他の認識理論を批判的に考察する視点もまた、獲得できるであろう。しかし、そのためには、スアレスなど、近世の哲学者がもっとも参照した認識理論もまた踏まえなければならないだろう。