アヴィセンナの内的感覚論と抽象化の理論についてのメモ
西欧近世哲学における抽象の理論の系譜を遡っていく過程で、どうしてもアラビア哲学におけるアリストテレスの受容と変容の問題は避けられない。むろん、抽象の理論の起源をたどれば、最終的には古代ギリシア哲学、アリストテレスの「アパイレーシス」に行き着くのであろうが、アリストテレスの抽象理論もアリストテレス受容の過程で独自に変容し、元のアリストテレスの抽象の理論とはだいぶ異なっているように思われる(このことについては、池田がオーガナイズした「抽象と概念形成の哲学史」ワークショップにおける、酒井健太朗氏の提題を参照されたい)。とりわけアリストテレス哲学の受容史で重要なのは、中世スコラに影響を与えたアヴィセンナ(イブン・シーナー)やアヴェロエス(イブン・ルシュド)であろうが、なかなか素人が手が出せるものではない(中世哲学における抽象と知性認識については、アダム・タカハシ氏の提題を参照されたい)。アヴィセンナについては近年、邦語で読める貴重な研究が幾つか出ているので、それらの紹介を兼ねて理解を補っていこう、というのが今回のブログの趣旨です。
小村優太氏は、「イスラーム哲学の文脈における表象力の語彙変遷史 ──イブン・シーナーにおける内的感覚論の形成──」において、(ラテン名 アヴィセンナ; 980-1037)の内的感覚論を彼の処女作『魂論摘要』に遡って分析し、イブン・シーナーがガレノス的な内的感覚論によりつつも、アリストテレスの共通感覚を復活したとする。また、イブン・シーナーは、独自に判断力を物事を判別する能力とし、共通感覚(形相把握力)に集まった形相を組み合わせたり分離したりする表象力から判断力を区別したとする。アリストテレスのφαντασίαが、アラビア語でwahmとtakhayyulと訳され、それぞれラテン語でaestimatioとimaginatioに翻訳されたという流れがあり、判断力としてのaestimatioと形相の結合/分離能力としてのimaginatioの概念はイブン・シーナーの独創であるという。イブン・シーナーは、感覚的形相の持つ内容を外的な特徴に由来するものとし、外的な特徴から判別できない内容を持つ「意味」(ラテン語でintentioつまり志向的概念)を感覚的形相から明確に分離したとする。そして、そのため表象力とは別に、意味を取り扱う能力である判断力が必要とされたと分析する。*1
また小村氏は、「イブン・シーナーにおける内的感覚論の形成と発展」*2で、これまで知性論の方向ばかり注目されてきた研究史を反省し、独自に知性論の背後にある内的感覚論に注目して分析している。内的感覚とは、アリストテレス『魂について』に由来するとはいえ、アリストテレス自身の哲学的枠組みにおいて明確に提示された概念ではない。内的感覚は、基本的には我々の外的な五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の情報を処理し、さまざまな思考や表象をおこなう能力である。しかしこれら内的感覚は、知性とは一線を画して、ときには誤りをもたらし得る、正しい判断と誤った判断の双方へと導かれる可能性を持った能力でもある。イブン・シーナーは、アリストテレス以来内的感覚には含まれてこなかった共通感覚を再び登場させ、表象力と思考力を同じ能力の二側面としている。さらに彼独自の能力として「判断力」を付け加えた。
「能動知性」についても触れており、能動知性もまた、アリストテレス自身の著作中には明示的には存在しなかった概念で、アリストテレス哲学が注釈されている1000年のあいだに生じたものの代表例である。これはアリストテレスが『魂について』の第3巻第5章でほんの少し触れただけだったが、註釈者の一人、アフロディシアスのアレクサンドロス(200頃)によって発展させられ、人間の思考を現実化させるためにはたらきかける、能動的な外的存在者と考えられるようになっていったという。
また、アラビア哲学における、プロティノスらの新プラトン主義の影響も分析している。それによれば、新プラトン主義の流出説は、神からの存在の流出や、能動知性からの思考の流出といった形で、アラビア語哲学に入り、とりわけ知性論では大きな役割を果たすようになった。イブン・シーナーは知性論において、新プラトン主義的な能動知性からの流出説をもちいた説明をおこなったが、もう一方で人間の内的な抽象化による認識の純化にかんする説明もおこなっている。「イブン・シーナーの認識論において知性が取り扱う形相は純粋な定義であり、三段論法によって構成される、論理学的な知である。それ以外の諸々の地上的な思考や認識は、知性ではなく内的感覚が担っている。つまり、内的感覚の範囲は、純粋に論理学的な知的形相の世界と外的な五感の世界を除く、広大な認識の世界なのである」。
イブン・シーナーは内的感覚と知性を明確に区別するが、これがその後のスコラの抽象理論の基礎になっていった側面が考えられる。小村によれば、能動知性からの流出という構造で説明されていた知的形相の認識にたいして、外的な感覚対象の認識を純化していくことによって完全な定義を得るという抽象化の理論は、イブン・シーナー認識論のもうひとつの柱を為すものである。「イブン・シーナーにとって知性の世界とは純然たる定義の世界であり、そこに個体性が存在する余地はない。これは現在我々が住んでいる世界とは完全に隔絶した世界であり、イブン・シーナーが抽象化理論の説明で持ち出している、想像力や判断力による抽象化こそが、日常的な意味での認識活動を担っている」。「抽象化の段階に従えば、我々は知性的認識に向かう前に、まず内的感覚による認識を経なければならない。しかしこの内的感覚の担う認識世界こそが、我々の日常的生活に密着した認識であり、きわめて広範な世界を取り扱っていることが分かる。この日常性こそ、内的感覚の認識世界の特色とも言えるだろう。想像力、表象力、判断力を含んだ内的感覚は、個体性を持った我々に近しく、日常性を伴った認識であり、さらに抽象化を通じて我々はここから知性的認識の世界へと旅立っていくのである」。
感覚知覚と知性的認識のあり方の違いは、その後、西欧近世〜近代にかけて認識論の大きな主題となっていきますが、その際、感覚からいかにして概念ないし観念へと変容するのか、つまり概念形成がいかにしてなされるのかという視点でみると、内的感覚論の重要性は哲学史的には見逃せないものです。アヴィセンナの抽象の理論について、内的感覚論を踏まえた小村氏の博士論文の本体もぜひ読みたいものです。