抽象と直観(4)
『抽象と直観』の読解、忙しくて継続できていないが、ふんばって今日は第4章「認識におけるスペキエスの役割」。
稲垣氏によると、トマスのスペキエス論には、知性と存在ensとの間の根源的連関をめぐる洞察があり、近世哲学の認識理論とは著しく性格が異なる、としている。
前章では、「オッカムの剃刀」が扱われた。この用語は、オッカム本人から一人歩きして、存在論的原理にも方法論的原理にも解されてきた歴史がある。著者によると、オッカムは、個体のみが存在するとする個体主義者であり、「オッカムの剃刀」はもっぱら方法論的にのみ用いられている。そして、そのオッカムは、スペキエスという媒介的認識の理論を、この「オッカムの剃刀」によって否定したということは確かということである。オッカムがスペキエスを無用とするのは、それが習慣habitusに還元できるからである。
さしあたり、私にとってスペキエス論が重要なのは、デカルトの認識理論に導入され、近世哲学で前提されるところの、「観念」の問題につながるからである。また認識的媒介者、あるいは関係項の問題は、抽象と想像力の問題、自然と精神の迷宮の問題につながり、したがってまた、連続体の問題でもあるからである。
以下では、可知的形象species intelligibilisを単にスペキエスと呼んで議論を展開している。
しばしば指摘されるように「スペキエスとは何か」を問うのはあまり意味がない。スペキエスは、認識とは何かが問題にされたときに、知性がそれによって/それを通じて認識するとされる、認識を成立させるものとして語られるからである。
トマスにおいては、スペキエスは認識される事物resではなく、それの類似similitudoないし模写である。裏を返せば、事物の認識について語られる際、実際に認識されているのは、事物そのものではない、ということである。
「可感的形象species sensibilesつまり感覚的表象phantasmaが認識対象を個別化されたものとして再現・表示するのに対して、スペキエスはその同じ対象を個別化されたものとしてではなく、ただそれの「何であるか」に関して、つまりそれの本性naturaあるいは何性quidditasに関して再現・表示する」
整理すると、
可感的形象(感覚的表象)→対象の個別化
可知的形象→事物の本性・何性
トマスが事物の「類似」としてのスペキエス、ということで意味しているのは、事物(=認識対象)が認識する者(=認識主体)の上に直接的に刻印ないし印象impressioづけられた類似、ということではない。すなわち、知性に対する事物の直接的な刻印・印象を否定する。
スペキエス論は、直観的認識および観念の理論と対比される。というのも、後者は、われわれが確実に認識しうるのは、認識主体に直接的に内在している観念であるという立場となりうるからである。