labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

カッシーラーと概念形成の理論

『実体概念と関数概念:認識批判の基本的諸問題の研究』、山本義隆訳、みすず書房、1979.

から「第一章 概念形成の理論によせて」をまとめてみました。原著は次のものです。こっちは読んでないです。

Cassirer, Ernst (1910), Substanzbegriff und Funktionsbegriff : Untersuchungen "uber die Grundfragen der Erkenntniskritik, Verlag von Bruno Cassirer, Berlin.

そのまえがきで、カッシーラーは自らに、「概念形成の原理自身をあらためて分析し直すようにしむけたのは、とりわけ系列概念と極限概念をめぐる研究であった」と述べています。さらに、なんだかすごい洞察も提示されています。

「哲学の歴史において、思惟と存在の関係、認識と現実の関係をめぐる問題が設定される場合には、つねに、その問題はその発端においてすでにある一定の〈論理学的〉類前提に、概念の本性と判断の本性についてのある一定の見地に、導かれ支配されている」

ふおお、かこいい!しびれますね。(まだ良く分からないですけど)

哲学において、ある主張の背景に、そもそもどういう前提があるのかを暴くというのはよくなされることですが、今回はカッシーラーを題材にして、哲学的なトレーニングをかねつつ、哲学史研究から何か哲学的に有意義なことを引き出せないか、考えてみようと思った次第です。昔から何度かつまみ読みはしていたのですが、きちんとまとめたことはありませんでした。カッシーラーは情報量が多すぎて、まとめるのにかなり苦労したので、面倒な方は最後の方に簡潔なまとめがありますので、それを読んでください。

注目すべきは、カッシーラーが論理学的な概念の認識問題について、抽象の理論すなわち概念形成の理論の哲学史を紐解きつつ、フレーゲが「思想」の概念を提示したのとはやや異なる仕方で心理主義を批判し、現代論理学の哲学史上の意義を主張しているところです。現代の数学では普遍的な規則を伴った新しい数学的概念が形成されるが、事物とその性質にとらわれる伝統的な抽象の理論や、すべてを知覚経験に還元しようとする心理主義では、そうした数学的概念がもつ論理学的機能を説明できないというのです。以下、レジュメです。

第一章 概念形成の理論によせて

伝統的な抽象の理論において、論理学は思考の基本形式として取り出される、唯一で不変のものであった。アリストテレスにおいて論理学の一般原理は、形而上学の忠実な表現であり反映としてあった。すなわち、存在の分類と本質の把握とが、思惟の基本形式を条件づけていた。

19世紀後半からドイツでなされた論理学の改革は、概念論に対して判断論を優先させて伝統の展開を図った。しかし、そこでも伝統的な類概念の優位が前提されるなど、以前として判断の理論に伝統的な論理学が深く入りこんだままであった。

伝統的な概念形成の理論の前提は、至ってシンプルである。すなわち前提は、事物の現存と、それらの実在から共通する要素を取り出す精神の能力(すなわち抽象の能力)のみ。事物から共通要素を抽象し、それらを分類する。この手続きを繰り返すことで、「個別の事物を貫く事象的〈類似性〉の等級に応じた」存在の序列・分節ができる。

この手続きの際、思惟が行っているのは、受け取った感覚の比較と区別という対象間の往来、すなわち〈反省〉だけである。この〈反省〉によって同質的特徴を純粋に取り出すことが〈抽象〉である。

こうした抽象による概念形成の理論は、自然的世界像の統一を損なうものではない。概念は現実から抽象されたものとしてあるので、概念は感性的現実と対立するわけではないからである。

種と類の関係は、抽象の度合いによって決定され、トレードオフの関係にある。すなわち、種から内容を抽象して一般化すれば類となり外延量は増大する。対して、類に内容を付加して特殊化すれば種となり内包量が増大する。

〈否定〉もまた抽象の重要な作用の一つである。否定の作用が、積極的な能作の表現ならば、(抽象で)残されるものは、全体を規定するような本質的な要素でなければならない。しかし旧来の概念形成の手続きは、そのような本質が得られることを何ら保証していない。

さらに、抽象の重要な作用の一つとして〈注意〉もある。注意は、概念形成の本来的な創造的能力とされる。しかし、「注意というのは、知覚のなかにすでに与えられている成素をただ分離したり結合したりするにすぎないのであって、これらの成素に新しい意味を与えたり、それらに新しい論理学的機能を付与したりすることはできない」(p. 28)。すなわち、心理学的法則に則った抽象のプロセスでは、独立した固有の意義をもつ新しい形象が生み出されることにはならない。〈注意〉が一方向に向けられることによって、既存の表象のある要素が周囲から際立って分割されるにすぎない。

アリストテレスにおいては、こうした比較の究極目標として〈形相〉があった。カッシーラーは、アリストテレスにおける抽象が有意味となる基準を、次のように的確に指摘している。

「少なくともアリストテレスにとっては、概念というものは、われわれが諸事物の任意の集団の共通要素を総括する単なる主観的図式ではない。共通なものを抽出するということは、そのようにして得られたものが同時に個々の事物の因果的かつ目的論的〈連関〉を保証している実在的な〈形相〉でもあるという思想がもしもその根底にないとすれば、表象の空虚な戯れにすぎないことであろう」

すなわち、アリストテレスにとって抽象は実在的な〈形相〉と関わるものでなければならない。実際、アリストテレスの論理学は、実体(事物的な基体)に即してのみ、多様な存在の規定、存在一般の論理学的・文法的種が与えられ得る。そこには、〈実体〉概念の論理学的優位がある一方で、〈関係〉概念は従属的な位置づけをなされる。

こうして近世では、抽象概念が心理主義的な批判を被る。たとえばバークリは、"Esse is percipi"の立場から抽象観念の存在を否定する。彼によれば、抽象観念とみなされているものは言葉や知覚がもつ代表作用の濫用にすぎないのであり、抽象観念はそれらを代表している特殊で具体的な感覚知覚に還元される、すなわち、抽象観念は消去できるものである。

このように、バークリは抽象観念を心理主義の観点から批判したが、このような抽象や概念への懐疑とは裏腹に、概念がもつ説明の妥当性については独断論的な信念をもっていた。

カッシーラーはこうした心理主義的な抽象観念の批判に対して、数学や物理学の概念には、スコラ的な抽象の理論による説明とは別の課題と能作があり、単純に心理主義にもとづく批判によって叩かれないところがある、とする。

J. S. ミルもまた抽象に対し心理主義的な批判を展開した。彼においては、関係の一般的意義などは問題にならない。あらゆる関係において積極的に存立するのは個々の項だけである。概念はある具体的な表象像の部分として以外には存在しない。概念があたかも自存するかのようなみせかけをもつのは、われわれが不完全な注意によって限られた抽出をしか持つことができないというまさにその事情によるのだ。

こうして、心理主義的な分析においては、概念は感性的記号と結びつけられた表象へと解消されてしまう。このような「抽象の心理学」では、あらゆる概念形式の論理学的内実は、「一度与えられた表象内容の〈再生〉という単純な能力」に由来する。

「抽象的対象は、知覚の反復を通じて知覚されるものの同一的規定性が顕現するところの表象する存在者Wesen各自のうちに生ずるとされる。・・・したがって概念Begriffとは、その起源からいっても機能からいっても、現実の事物や事象の知覚がわれわれに残す記憶残存物(Ged"ochtnisresiduum)の総体(Inbegriff)以外のものではない」

こうした見解は、中世の「概念論」に極めて近い立場である。つまり、抽象概念は共通要素として知覚内容に現実的に含まれているので、知覚内容から取り出すことができる、というものである。構図は同じで、スコラの存在論的な考察の仕方と心理主義的な考察の仕方の相違点は、スコラ哲学での「事物」は思惟に模写された存在物を意味するが、心理主義のいう対象とは表象内容にすぎないとみなされているだけである。

カッシーラーは、アリストテレスの概念論の限界を指摘する。アリストテレスにとって目的とされた概念は生物学的・分類学的な「類」であり、そこではオリーブだとか馬とかの「形相」の発見が重要となる。しかし類概念の生物学的考察から離れるやいなや、アリストテレスの概念論は不十分なものとなる。とりわけ幾何学の諸概念の場合、物理的物体の部分成素として提示されるものでもなく、したがってそれら物体から単純な抽象によって取り出されるものでもない。

カッシーラーは、次のように数学的概念が経験的概念と区別されると主張する。

「生成的定義を通じて、〈構成的〉連関を頭のなかで確立することによって生み出される数学的概念は、事物の所与の現実におけるなんらかの実際的特徴を単に模写すると主張するにすぎない経験的概念とは区別される」

数学的概念では、「単純な措定の作用から綜合を通じて思惟形象の体系的統合が作り上げられることによってはじめて考察の対象をなす多様が生み出される」。そこには、思惟に固有の作用である一定の関係連関の自由な産出があり、単なる「抽象」と対立している。すなわち、多様のうちに数学的概念が思惟の対象として元々あるわけではなく、体系的な関係をもつものとして構成されるものとしてあり、そこではじめて思惟の対象となりうる多様が生成される。他方で、経験的概念では、事物の多様はそれ自身独立に存在し、ただ言語上・概念的な表現にまとめあげられたものとしてあるにすぎない。

こうしてカッシーラーは数学的概念がもつ構成的性格を、伝統的な抽象の理論が捉える単なる「抽象」と対立するものとみなす。

カッシーラーはさらにJ. S. ミルの批判を通じて、数学が伝統的な抽象の理論による説明にはおさまらないことを主張する。

J.S. ミルの経験主義では、数学の概念や真理性といえども、具体的で物理的な諸事実の表現でしかない。ミルは、幾何学と算術を、経験される事実ないし事物の印象、すなわち表象像に還元する。その際、想像ないし心像の正確さと忠実さを主張し、記憶像が厳密・明晰なので、感性的対象の代理となりうるとした。

しかし、「演繹的」な確実さは、具体的事実についての言述ではなく、〈仮説的〉形象間の諸関係であるということに帰せられている。また、幾何学の定義と精確に一致する実在的な事物は存在しない。経験の立場からは、このような内容の現実性のみならず、可能性にすら異議が唱えられねばならないはずである。さらに、ミルでは数学的観念とそのもとの印象との間の〈類似性〉が強調されるが、そのような類似性は存立しえない。

こうしてカッシーラーは、数学的対象が、表象や自然からの抽象という仕方では得られないことを主張する。

「数理科学での形象は、表象や自然の事実をただ単に抽出することによっては得られない。というのも、その形象はこのような事実全体のなかにはなんら具体的対応物をもたないからである」

カッシーラーにとって「「抽象」は意識や対象的現実の存立を〈変える〉のではなく、そこに一定の枠付けと区分とを措定するにすぎない」ものである(p. 16)。純粋数学では、感性的事物や表象の世界が再現されるのではなく、それが変形され、別種の秩序に置き換えられている。そこでは、「抽象」という単純な図式では特徴付けられないある関連の「形式」(厳密に区別された思惟機能の分節化された体系)が認められる。

カッシーラーは、すべての抽象の根底として〈同定(Identifikation)〉の作用があることを看破する。〈同定〉の作用は、「時間的に隔たった二つの状況を結びつけてひとつのものに措定する」作用である〈綜合〉のこと。すなわち、抽象の根底には、同定を可能にする類似性の原理がある。

しかし、まさにこうした類似性の想定に、抽象の理論の欠陥がある。というのも、抽象による概念形成の過程では、諸知覚が類似性の関係のもとに秩序づけられることがはじめに要求されていなければならないからである。直観の多様から概念が形成されるのは、その産出的関係がある必然的な列をなしている場合である。抽象の理論の欠陥は、そこでの産出的関係の原理として〈類似性〉のみが保存されるという前提をとるという一面性にある。

「抽象の理論の真の欠陥は、可能なさまざまの論理的な秩序づけの原理のうち、もっぱら〈類似性〉という原理のみを取り上げるという一面性にある」

心理学的に、同等性、あるいは、似ているとか似ていないとかいう類似性は、色や音、触覚などとならぶ固有の感官感覚の要素として現れるものではない。

こうして、概念に関する論理学の真の課題は、範疇的機能の解明ということになる。抽象の理論は、範疇的形式を知覚内容の部分と混同することによって、この課題を不鮮明なものにしてしまっている。

カッシーラーは関数それ自身が諸項の系列としては示されない例を挙げ、次のように述べる。「概念内容の統一がその外延をなしている個々の要素から数学の規則が「抽象される」のは、それらの要素を関連づける特定の規則を、われわれがそれらの要素に〈即して(an)〉知るというやり方によってであり、単にそれらの部分を加えたり無視したりすることによってそれら要素〈から(aus)〉規則を合成することによってではない」(p. 19)。ここからカッシーラーは、抽象の理論では、その内容を秩序づけられた多様という形式で考察しており、したがってそこでは「概念」は、導出されたのではなくすでに先取・前提されてしまっている、とする。

伝統的論理学における類概念の形成では、(1)〈全体〉と〈部分〉という範疇、および(2)〈事物〉と〈性質〉という範疇がとられていた。しかし、関係についての一般的・論理学的理論から論理的範疇の体系の全体的な見取り図を手に入れ、そこで個別性の規定を試みるという目的にとって、事物という範疇が不適格であることは、純粋数学をわれわれがもつことより明らかである。

また、〈否定〉による概念形成についてカッシーラーは、伝統的論理学では、特殊から普遍へと上昇する規則にもっぱら従ってるが、このことは逆説的に言えば、下位の概念から上位のより包括的な概念へと上昇するさいに思惟が行っていることは単なる〈否定〉にすぎないということである。

伝統的論理学では、精神に備わる〈忘却〉や、自然をありのままに捉える能力の〈欠如〉、ないし不完全性が、精神に概念形成の能力を与えていることになる。そこでは、「すべての概念形成は個的な直観を概略的な全体像で置き換え、概念形成は、現実の知覚のかわりにその不完全で漠然とした残存物を置くことから始まる」、ということになる。

しかし、概念形成の厳密さと明晰さとが最高水準に達している科学を考察すれば、このような結論は実情に合わない。カッシーラーはこの点で、数学的概念と存在論的概念がはっきりと区別されると指摘する。

数学の概念においては、その概念が適用される特殊の事例の規定性を放棄せずに保存している。公式が特殊の事例を持ち合わせているのみならず、公式から特殊を導き出すことができる。これに対し、論理学のスコラ的概念ではこのことが認められない。スコラの論理学における抽象化とは、特殊の省略を通じて概念を形成することであるが、そこでは特殊の再現はできなくなる。

数学的公式の事例に見られるような「真正の概念」は、そこに含まれる特殊性を不注意に見落とすのではなく、まさにこの特殊性の出現と連関とを〈必然的なもの〉として示そうとするものである。「真正の概念が提供するものは、特殊を統合するためのある普遍的な〈規則〉そのものである」(p. 22)。こうしてカッシーラーは、数学に見られる〈概念〉と〈規則〉の結びつきに注目する。

例えば、再び数学の公式を見ると、その普遍的な概念からは、特殊な問題に現れる数学的関係をすべて導出できる。このような概念の特徴をなしているのは、表象像の普遍性ではなく、〈系列原理〉の普遍妥当性である。つまり、多様から抽象的部分を〈取り出す〉のではなく、多様から諸項の法則的連関を〈つくり出している〉のである。

こうしてカッシーラーは、概念の「抽象的普遍」に対して、数学的公式を「具体的普遍」と見なす。抽象的普遍は、それ自体が単独に考察され、種の区別を無視する類に帰属する。他方で、具体的普遍は、すべての特殊態を内に含み、ある規則にのっとって特殊を展開する全体概念に帰属する(p. 23)。

ここから浮き彫りになるのは、実体概念の観点に縛られている伝統的な〈類概念の論理学〉と、〈数学的関数概念の論理学〉の対比である。カッシーラーはこの〈数学的関数概念の論理学〉が、数学の領域にとどまらず、自然認識の領域に介入してくるという。「というのも関数概念こそは、現代の自然概念がその歴史的発展の過程で形成されるさいに準拠した一般的図式と原型とを含むものだからである」(p. 24)。

カッシーラーは、〈抽象の理論〉の近代における変化に触れる。ロッツェにより、旧来の抽象の理論に対して懐疑的批判がなされた。概念形成の規則は、単なる省略、単なる否定の手続きではなく、省略された特殊的規定のところに普遍的徴標がつねに代入されねばならない。そこでは、個別徴標の代わりに、それらが属している総体(Inbegriff)が視野に収められねばならない。

そこで問題になったのは、概念的一般化は、概念的内容の貧困化を意味するかということである。規定性が、不変な徴標、つまり事物とその諸性質に尽くされているという旧来の抽象の理論では、概念的一般化はすなわち概念的な異様の貧困化を意味することになろう。しかし、新しい数学的関数概念の論理学では事情が異なる。
「しかし、概念が事物的存在からいわば解放されるに応じて、他方ではそれのもつ固有の関数的能作が浮び上ってくる。固定的諸性質が、可能的諸規定の全系列を一度に見渡すことのできる一般的規則で補完されるのであり、この変換、論理学的「存在」の新しい形式へのこの置き換えが、抽象本来の積極的な能作をなしているのだ」。

このことは、〈概念的一般化は概念的内容の貧困化をもたらす〉という思想から、〈概念的一般化は具体的全体(総体)の構築をもたらす〉という思想への転換を意味する。

エルトマンは、「第一次の対象」として感覚知覚の対象を措定し、「第二次の対象」が個別的諸要素を合一する作用(総括の形式)を通して創出(規定)されるものとした。エルトマンはこの考えに、現代集合論の問題を通じて導かれた。この場合、概念を規定しているのは、もはや諸徴標の共通性ではなく、諸要素の編成連関である。

論理的規定性が表現されるのは、単純な直観においてではなく、もっぱら〈定義〉という綜合的な作用によってである。

まとめ

カッシーラーは、それまでの伝統的な抽象理論では説明できない、論理学的な意味での概念形成がもつ意義を明らかにし、伝統的論理学から現代論理学への思想的転換を浮かび上がらせている。数学的な概念が存在するのは、単なる省略や注意といった心理学的な意味での抽象ではなく、規則や法則という連関に見られる論理学的機能の付与にあるのであり、このような論理的な作用性格は、感覚・知覚には還元できないものである。

カッシーラーは関数概念に着目することによって、精密科学における抽象の取り扱いが伝統的な抽象の理論の枠組みにはもはやおさまらないものであることを明らかにする。

「精密科学において理論は、概念の「本質」なるものをめぐるいっさいの心理学的ないしは形而上学的な前提に関わり合うことなく、もっぱらその論理的内実にのっとって研究することのできる豊穣な領域を見出したのである」

こうしてカッシーラーは、抽象の理論の哲学史を考察することによって、関数概念の登場が果たす歴史的意義を明らかにし、形式的概念を扱う(純粋)論理学の心理学・形而上学からの独立を認めるのである。