labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

17世紀西欧哲学における「数学」の位置づけ(4)

東慎一郎「伝統的コスモスの持続と多様性――イエズス会における自然哲学と数学観」『ミクロコスモス:初期近代精神史研究』第1集,月曜社,2010, 203-233.

上記の東さんの論文を再読しましたので、自分の考えをまじえつつ、簡単にまとめてみました。

初期近代のアリストテレス主義といっても、16-17世紀の学問状況はすでに複雑であり、一括りにすることはできない。大学やコレギウムでの教育は多様であり、会派の違いもあれば、哲学者や数学者などで立場も異なる。しかし、当時のアリストテレス主義哲学が数学をどのように位置づけていたのか、ある程度概観をもっておくことは、デカルト以降の初期近代における数学と哲学の関係を考察する上で不可欠である。初期近代においてとりわけ大きな影響をもったのは、クラヴィウス(Christophorus Clavius, 1537-1612)やトレトゥス(Francisucs Toletus, 1532-1593)、そしてコインブラの注釈者たちがもたらした、イエズス会派の数学観であった。

アリストテレス哲学において、数学が厳密な意味において学問Scientiaと呼べるかどうかは、論争の種であった。アリストテレス主義の学問論において、数学は、「原因の認識」に関わる形而上学や自然学と区別される。アリストテレス主義では、とりわけ目的因が卓越した原因とされたが、数学の哲学において質料因や形相因が問題とされることはあっても、目的因は関わらないとされた。こうして、原因の観点から数学の学問的地位を劣位に置く解釈に対し、イエズス会派の中でも、数学の学問的地位については大きく意見が分かれた。そこには、「抽象」の学問としての数学の位置づけに対する異なる評価がある。

たとえばトレトゥスは、抽象的な数学的事物のほうが自然学的存在よりも感覚に近いと考え、学習の順序の観点から、論理学や数学を、倫理学形而上学に優先するものとして挙げる。これは、通常のアリストテレス主義において数学がより感覚から離れた抽象の学問とされることからすると、逆説的である。ここには、自然的実体が偶有的な仕方でのみ感覚的なのであって、本質的には感覚的ではない、という解釈が背景にある[東, 2010, 216]。

また、コインブラの哲学教師たちにおいても、数学は学習の順序として最初にこなければならないとされる。こうして、数学が自然学と形而上学の中間に位置づけられるとする、プラトンに起源を有する「数学の中間性」説はくつがえされる。数学の中間性説では、数学的事物は、アリストテレスの抽象の理論の観点から、一方で質料から離れ知性的であるが、他方では質料によらずには存在できない点で感覚的である点で、知性的な形而上学と感覚的な自然学との中間にある存在物とされる。これに対し、コインブラの注釈者たちは、数学の中間性を真っ向から否定しはしないが、学習の順序の観点から数学を学問論において優先する立場をとる。イエズス会派に見るアリストテレス主義における数学の位置づけの変化は、伝統的な数学観が初期近代において大きく変革しつつあったことを意味する。

17世紀において、数学がしばしば「量の学問」であるという規定が登場する。この規定もまた、アリストテレス主義の系譜の線上にある。たとえばトレトゥスは、自然学が感覚的・自然的実体を基体とするのに対して、数学の基体は実体そのものではなく量である、として数学を自然学から区別する。

「量」は元来自然界に存在する特性としてあり、その限りで自然的実体と同様、作用因と目的因をもつが、数学的対象とみなす場合、そうした原因から切り離された抽象的存在となる。数学的対象はこのとき、人間知性によって「抽象」となり、量という属性が実体から分離した単独のものとして考察されることとなるからだ。たとえば、トレトゥスは抽象作用を、現実的realisなものと理性によるrationeものとに区別している。後者の一つに形相的抽象abstractio formalisがあるが、これはある偶有性を、その自然の状態において伴っている他の偶有性から切り離して単独で考察する際の抽象作用である[東,2010, 220]。したがってトレトゥスによれば、純粋な数学的対象は、この形相的抽象としてあることになろう。

数学的論証が、原因の観点から真正の学問とみなされるかどうかについては、トレトゥスとコインブラの注釈者たちとで意見が分かれるようである。しかし、そこで論点として浮上したのは、「数学の確実性」をどう評価するかということであった。この確実性の源泉が「明証性」にあるとするコインブラの注釈には興味深いものがある。数学の確実性という論点に関し、クラヴィウスは、すべての応用数学天文学・機械学など)の基礎としてユークリッド『原論』があることを主張し、数学(とりわけ幾何学)の諸学に対する有用性を擁護した。そして、数学の確実性を極めて高く評価して、数学は他のあらゆる学問のうちで第一に置かれるべきものであるとした(Clavius, Opera mathematica, I, 5)。


こうして、事物の一側面しか扱っておらず実体ではない抽象を扱う学問である数学を、原因の観点から自然学や形而上学に対して劣位に置く伝統的な見方に対し、「学習の順序」の観点および「確実性」の観点から、数学を重視するという見方が、アリストテレス主義哲学の内部で生じた。アリストテレス主義の学問観の批判、および、学問の確実性・明証性のモデルを数学に求める見方が初期近代におけるアリストテレス主義(とりわけイエズス会派)に生じたことは、後のデカルトらによる数学革命を含む科学革命およびそれと連動する哲学革命を準備するという点において、大きな意義を有したであろうことは疑いえない。