labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

知性の抽象をめぐって―ものの十全な認識に関するデカルトの手紙―

デカルト全書簡集』(知泉書館)にある、「デカルトからジビューへの手紙」を原文を参照しつつ読む。難解なテキストで、丁寧かつ正確な翻訳であると思うが、なかなか日本語が頭に入ってこなかったため、訳文には自分の言葉に少し置き代えたものもある。

デカルト全書簡集 第五巻: (1641-1643)

デカルト全書簡集 第五巻: (1641-1643)

手紙は、デカルトが『省察』1641をソルボンヌ大学の神学部に献呈した翌年の1642年1月19日に書かれている。アルノーがソルボンヌで博士をとったちょうど翌月であり、手紙からは若いアルノーへの高い評価がすでに伺える。

この中で、デカルトは「知性の抽象abstractio intellectus」について述べている。

何らかのもの[chose:物的なものだけでなく心的なものも含む]について私が持っている観念が「知性の抽象によって、私において不十全にされたのではないnon redditur a me inadaequata per abstractionem intellectus」ということを、どの原理によって知るように思われるのか、その原理について申し上げますと、私はこの原理を、私自身の思考と意識からしか引き出しません。

この理由について、デカルトは次のように述べている。

なぜなら、私は、私の外にあるものについて、私が私のうちに持つ観念を介するのでないかぎり、そのもののいかなる認識をも持ちえないと確信しているからです。

デカルトは後の箇所でも、この規則を繰り返している。デカルトが掲げる規則とは、

すなわち、われわれは、われわれの抱く観念によってでしか、もののいかなる認識をも持ちえないということ、したがって、われわれはそれらの観念に従ってでしか、ものを判断すべきではなく、そして、それらの観念に反するすべてのことは、絶対的に不可能であり、矛盾を含むとさえ考えなければならない、ということです。

外的事物の認識は、私のうちにある観念を介して行われる。われわれは観念によってしかそのものを判断できず、観念が矛盾するときは、そのものが不可能であることを示している。

ここで問題になっているのは、外的事物とそれに対応する観念の関係である。このことについて、デカルトは、

その観念のうちに見いだされるすべてのものは、必然的に事物のうちにあると信じている

とはっきり述べる。つまり、観念の側を探究すれば、外的事物のこともわかる、ということである。

デカルトはまずこのように自分の考えを述べ、次に、スコラ哲学の「知性の抽象」説を批判することへと移る。

私の観念が、私の精神の何らかの抽象によって不完全、あるいは「不十全inadaequta」にされていないかどうかを知るためには、私はただ、次のことを検討するばかりです。すなわち、私がその観念を引き出したのは、私の外にある何らかのより十全な事物からではなく、私が私のうちに持っている何らかのより充溢した、あるいはより完全な他の観念からではないか、ということを。

デカルトはここで、知性の抽象を「精神の抽象」とも言い換えている。問題は、この「知性の抽象」ないし「精神の抽象」とは一体いかなるはたらきなのか、ということである。

それは、この「知性の抽象によって」、すなわち、より充溢したampleその観念のうちに含まれているものの一部に、私をいっそうよく向け、いっそう注意深くなるために、他の部分から私の思考を逸らすことによってではないか、ということを。

「知性の抽象」とは、要するに、われわれが精神のうちにもつ観念のある一部分にだけさらに注意を向け、他の部分からは注意を逸らすということである。デカルトはそうした知性の抽象すなわち精神の抽象abstraction d'espritの具体例として、1) 谷のない山の観念すなわち谷の観念と切り離された山の観念を考察した場合、および、2) 実体や延長を考えることなくただ形だけを考察した場合を挙げている。

ところが、デカルトにとって、「抽象によって」ある観念を持つことは、十全ではない。「というのも、形が延長や実体を持つことを否定して、それがある実体の延長であることを否定するならば、およそ形というものを理解することは不可能であるからです」。つまり、形が延長や実体から抽象されて持たれた観念である場合、その形の観念は、「知性の抽象によって不十全」である、と言われる。これに対して、「延長し形どられた実体の観念は十全です」。たとえば物質の部分は、延長実体の観念が伴う場合、「実在的に分割可能」であることがわかる。この場合その物質の可分性の観念は、延長・実体の観念なしには考察できないので、その結合を明晰に見た場合、「知性の抽象によって不十全にされたのではない」ものとなる。

すなわち、ある観念が精神の抽象によって不十全であるという認識が得られるのは、その観念より充溢した、より完全(十全)な観念に依存して出て来たのではないかということを検討することによってである。

このように、デカルトはものの観念の十全性の規準を、「知性の抽象によって不十全にされたのではい」ことに置く。そして、ものの本性の認識については、観念に基づくしかないこと、知性の抽象によってではなく、思考と意識によることを主張する。

「完全(compl`ete)な」観念とは、「私がその観念をまったくそれだけでtoute seule理解でき、私が観念を持つ他のすべてのものを、その観念について否定nierすることができる」ということを意味する。すなわち、十全な観念の規準となるのは、I) その観念の独立認識可能性と、II) それ以外の観念の否定可能性である。たとえば、形を持つ延長実体の観念は、それだけで理解でき、色や重さなどの性質は否定してもその観念は何ら影響されずに残る、というわけである。

デカルトは、このことと先の規則によって、魂と身体の実在的区別も認識できるとする。魂と身体の実在的区別、すなわち、「魂と身体を一方なしに他方を理解し、そして一方について他方を否定してさえも理解しうる、2つの実体として認識する」ことができる。というのも、先の規則より、「われわれは、われわれの抱く観念によってでしか、もののいかなる認識をも持ちえない」のであるから、観念が十全であるか不十全であるかを見ること、すなわちある観念について一方が他方なしに考察できるかどうか検討することの結果は、それらの観念に対応するものについても、該当するからである。

したがって、魂と身体が不可分であるとする想定は、デカルトにしたがえば、矛盾を含むことになる。なぜなら、魂の観念も身体の観念も、それを十全たらしめる思惟の観念と延長の観念に見ることができるが、それらはそれぞれ、独立に認識可能であり、かつそれ以外の他の観念を否定できるのであるから、魂と身体が不可分であるという想定は、それらのものに対応する観念の側での分析によって、矛盾を含むということになるからである。


デカルトはコギトの原理によく投げかけられる批判ついても、最後に補足している。
つまり、デカルトにしたがえば、思考していないときはわれわれは存在していない、ということになるのではないか、という素朴な疑問である。デカルト自身、『省察』でこのことを認めていた。しかし、デカルトはこの手紙で、「魂はつねに思考する」としている。魂が思考することをやめたならば、それは存在することをもやめたのである、とデカルトは認める。デカルトは、「あるものの本性を構成するものは、そのものが存在するかぎりは、そのもののうちにある」と信じている。これを今の文脈に当てはめると、「思惟という魂の本性を構成するものは、魂が存在するかぎりは、そのもののうちにある」ということになるから、魂の存在と魂の本性は、本来一なる等しい論理的関係にあって、思惟から存在を導き出すことは、単純な演繹的な帰結にすぎないことのように考えられる。しかし、デカルトは、魂が思考しないことがありうると判断するよりも、「魂はつねに思考する」とした方が難なく理解できるだろう、としている。これについては、デカルトは明晰さを欠くし、十分な説明をしておらず、あまり説得力がないと思われても仕方がないだろう。


最後に、デカルトがここで批判している「知性の抽象」による方法と、デカルトがここで主張している「ものの本性の認識」による方法について述べたい。デカルトがこの手紙で述べている「ものの本性の認識」、すなわち、観念の側でのものの十全な認識による方法は、初期デカルトにおける「精神の形象化」および「知性の抽象」による方法と、まったく異なるものである。「知性の抽象」は、名目的な分析とも考えられる、数学によく見られる認識の方法。「精神による形象化」は、想像力の補助を用いた認識の方法。これらは、Regulaeでも見られる、初期デカルトの方法の両輪であろう。他方で本性認識の方法は、デカルトが抽象や形象に基づくスコラ的な影響の強い初期哲学の方法から転回し、『省察』にいたって独自の哲学的方法を打ち立てたことを意味していよう。ただしこれについては、初期と成熟期とのあいだに関する連続性の議論もあり、もう少し丁寧に分析する必要があろう。


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