labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ライプニッツ『モナドロジー』§17

1. 原文

On est obligé d'ailleurs de confesser que la PERCEPTION et ce qui en depend est INEXPLICABLE PAR DES RAISON MECANIQUES, c'est à dire, par les figures et par les mouvemens. Et feignant qu'il y ait une Machine, dont la structure fasse penser, sentir, avoir perception ; on pourra la concevoir aggrandie en conservant les mêmes proportions, en sorte qu'on y puisse entrer, comme dans un moulin. Et cela posé, on ne trouvera en la visitant au-dedans, que des pièces qui se poussent les unes les autres, et jamais de quoi expliquer une perception. Ainsi c'est dans la substance simple, et non dans le composé ou dans la machine qu'il la faut chercher. Aussi n'y a-t-il que cela qu'on puisse trouver dans la substance simple, c'est èa dire, les perceptions et leurs changemens. C,est en cela seul aussi que peuvent consister toutes les ACTIONS INTERNES des substances simples.

したがって、われわれは、表象および表象に依存するものは、機械的理由によっては説明不可能である、すなわち、形状や運動によっては説明不可能である、ということを告白せざるをえない。ある機械があって、その構造が思惟し、感じ、表象を持つような機械であると想像してみると、その機械は、同じ比例を保って増大しており、粉挽き小屋のなかのようにそこに入ることができるようになっているものとしてある、と考えることができる。そして、このことが措定されたとすると、互いに押し合う断片しか、中に入ってくるものをそのうちに見いだすことはできないだろう。そして表象を説明するものを決して見いだすことはできないだろう。したがって、それを探すべきなのは、複合体のうち、あるいは、機械のうちではなく、単純実体のうちである。そして、単純実体のうちに探すことができるのもまた、それのみである、すなわち、表象およびその変化だけである。単純実体のあらゆる内的はたらきが存し得るのもまた、それらのみにおいてである。

2. 備考

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ライプニッツは、一方で、身体の運動を含む自然現象は、すべて機械論的な原理で説明可能であるとする。すなわち、自然現象は、大きさ・形状・運動に還元できるし、還元の方向を極力追求すべきである。この意味では、デカルトの機械論を継承している。しかし、他方で、精神的な受動すなわち表象の原理は、機械論的な原理では説明できないとする。機械論的原理が説明しうるのは、あくまで現象として現れている外的なはたらきであって、そうした現象をわれわれにとって現象としてもたらしているところの、表象やその変化の内的なはたらきではない。

ライプニッツはその内的なはたらきの根拠を、単純実体の内に求める。それは、原子のような不可分な要素としてあるのみではないし、また、物理的なものでもない。粉挽き小屋の例は、表象をしている機械があったとしても、小屋の外的観察だけからでは、機械が何をどう表象しているのか、表象の仕組みや内容は見当もつかない、ということを示唆している。

ライプニッツが表象や欲求を原理としてもつ生命的な魂を、物体を構成するモナドにも認めるのには、こうしたデカルト派の機械論や復活した古代原子論などに対する反省があろう。

3. 解釈

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4. 比較参照

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5. レッシャーのコメンタリー

アリストテレス、およびその後のトマス・アクィナスは、感覚知覚が物理的な伝達によるという原子論者の考えに反対した。彼らは、認知を説明するために、質料よりもむしろ形相(可感的形象)の側面を重視した(小石を投げて信号を送るのと、大部分が場所に残るある媒体を横断して波を送るのを比較せよ)。しかし、古代〜17世紀にかけて、形象伝達の理論家は、伝達過程のメカニズムについて確固たる把握を得たわけではなかった。ライプニッツは(バークリ同様)ゴルディアスの結び目を切って、伝達説ではなく、調整(一致coordination)説を唱えた。

ライプニッツの粉挽き小屋の例は、知覚が機械論的原理からは理解しえないことを示すよう、企図されている。ライプニッツにとって、物理的領域と心理的領域は、きっぱり分離されている。(心身間の)いかなるデカルト主義的な相互作用も不可能である、というのも、それらは単に、同じことの異なるアスペクトにすぎないからである(スピノザ的に考えて)。知覚は、物理過程ではなく、したがって、作用因では説明可能でない。知覚の真なる理解と説明は、心的過程一般がそうであるように、目的因の観点から説明されねばならない。自然における心身の予定調和は、心的秩序と物理的秩序が互いに全体として一致するということである。この見解によれば、知覚が単純実体のうちに見いだせるすべてのことであるという事実は、実体の領域でのはたらきの全体は、目的因の考察によって究極的に決定づけられているということを意味する。