labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

『モナドロジー』(1714)の概要

まず、モナドの定義から始まる。モナドとは「部分を持たない」という意味で単純な実体であり、複合体とは諸モナドの寄せ集めである。モナドこそが「自然の真のアトム」、すべての事物の要素である(§§1-3)。このモナドというものは、創造と消滅を通じてしか生じることも無くなることもない。つまり、神による創造によってすべてのモナドがあり、モナドが自然的に発生したり死滅するということはない(§§4-6)。モナドには「窓がない」、すなわち諸モナドは互いに物理的因果を持たない。またスコラで言われる感性的形象を認識的に受容することもない。つまり、諸モナドは互いに物理-精神間の因果も持たない(§7)。ただし、モナドはその内的表象を介して、観念的因果はもつ。モナドは性質をもち、その性質の差異によって、すべて互いに異なっている。モナドは表象と欲求のみをそれ自体のうちにもつ。「表象」とは、「多を含み、かつ多を表現している推移的状態」であり、「微小表象」すなわち自覚されない知覚を含む。その点で、表象は「意識」すなわち自覚的表象よりも一般的な内的知覚である。欲求とは、表象の変化や推移の原理で、意志よりも一般的な内的傾向性である(§§8-16)。表象は機械論では説明できない(§17)。すべてのモナドは精神(魂)であるわけではなく、単なるモナドと異なり、判明な表象と記憶をもつモナドのみを魂と呼ぶ。ただし、非延長的であり、表象と欲求をもつかぎりで、すべてのモナドは精神のようなものである(§§18-9)。単純実体は消滅せず、気絶や死は微小表象の状態、いわば「裸のモナド」である(§§20-24)。このモナド論の枠組みのもとで、感覚や想像力・記憶・経験的知識について(§§25-28)、精神がもつ必然的真理や理性的知識について(§29)、そして反省や自我について説明される(§30)。矛盾律と充足理由律という二大原理はそれぞれ、思考の真理と事実の真理にかかわる(§§31-37)。神は唯一であり、事物の究極的理由であり、第一の一性である。それは普遍的必然的な実体であり、最初の単純実体である(§§38-40)。神はまた完全で絶対的である(§§41-46)。神とその被造物であるモナドの関係、および被造的モナドがもつ能動的作用と受動的作用について論じられる(§§47-52)。神は無限の可能的宇宙から現実世界を選択し、それは最善の世界である(§§53-55)。そこでは、すべての被造物が互いに結合し適応しており(=予定調和)、モナドは「宇宙を映す永遠の生きた鏡」である(§56)。映されるのは、異なる観点(視点)から見られた同じ一つの宇宙である(§§57-58)。この「予定調和」説の中でモナドも説明され(§60)、単純実体と複合体の「符号的」関係、魂の襞は無限に及ぶことが論じられる(§61)。各モナドは自らの身体をもち、身体を表現することで宇宙全体を表現する(§62)。生物・動物は有機的身体をもち(§63)、その有機的身体は自然的なオートマトン(自動機械)である(§64)。各有機的身体はそのうちにさらに小さな有機的身体を含んでおり、それは無限に続く(§§65-69)。各生命体、および身体のどんな小さい部分も、支配的なエンテレケイア(動物だと支配的な魂)をもつ。そこには、モナドの支配的/従属的な関係に応じたヒエラルキーがある(§70)。物質から完全に切り離された魂もなければ、身体を持たない精神はなく、エンテレケイア(魂・精神)と物体(有機的身体)は、相即不離の関係にある。この魂と有機的身体の対応関係もまた「予定調和説」で説明される(§§71-81)。最後に、予定調和と神の国、すなわち人間の魂が神となす共同体が論じられている(§§82-90)。