labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

研究メモ:個体と抽象

ライプニッツにおける数学的存在と抽象の理論に向けて、このあいだの日本ライプニッツ協会大会での発表後、山内志朗先生に指摘された文献の一つ、

Larence B. McCullough, Leibniz on Individuals and Individuation: The Persistence of Premodern ideas in Modern Philosophy, Kluver Academic Publishers, 1996.

を読み進める。

私の発表「ライプニッツの延長概念と抽象の理論ー『ライプニッツーデ・フォルダー往復書簡』の分析ー」では、ライプニッツが現実的延長と数学的延長、2つの延長を区別していたとするロッジの解釈は、まだ根拠が不十分であることを主張した。ライプニッツが明示的な区別をしているわけではなく、現実的延長と数学的延長の関係も説明されていない。その根拠を埋めるには、さらなる哲学史的な探究が不可欠であるが、その関連として、私は、ライプニッツが、トマスの全体的抽象と数学的抽象に似たような仕方で、2つの抽象を区別していたのではないか、という可能性を指摘した。

私は独自にこの見解に至ったわけであるが、McCulloughは、すでに同書で、"Abstraction from concepts to concepts"と"Abstraction from individual things to concepts"を区別している(pp. 159-161)。

なかなかやるじゃん・・・。

McCulloughの研究書はライプニッツの個体論の前提となるスコラ哲学の知識を用意してくれており、それを踏まえた上で書かれた第一級の作品で、ストローソンやウィギンズらいまや現代の古典である個体の形而上学にも触れている。すごい(というか、研究としては当然踏まえなければならない)。

私の考えでは、ライプニッツが考えている抽象の理論は、デ・フォルダー宛書簡の段階では、次のようなものである。すなわち、数学的概念を得るところの数学的抽象は、抽象の抽象、つまり二段階の抽象である。概念形成の観点では、数学的概念も、もとをたどれば、個体とその属性に起源があるのでなければならない。なぜなら、ライプニッツは個体と属性しか存在しないとしているからである。したがって、諸個体からの抽象、つまり第一段階の抽象によって、現実的延長を得る。数学的延長は、そのさらなる抽象である、こう考えると、非常にシンプルでスッキリしたものになる。モナドの寄せ集めから抽象される現実的延長と、幾何学的線などの数学的延長の関係も明確になる。現実的な実体を第一とするアリストテレスにおいても、おそらくそのような抽象の理論となるはずで、ライプニッツの抽象の理論は、アリストテレス・スコラの哲学の系譜の、ある変奏となっていると予測される。これらを押さえるためには、トマスの抽象の理論や、スアレスのentia rationisの議論なども検討していかなければならない。もっとも、このようなシンプルな理論には、ならないだろうが。

しかし仮にこのような抽象の理論をとっているとすると、困難は、観念の理論との擦り合わせである。こちらはむしろプラトン的な色彩をもち、デカルト的な生得観念説やマールブランシュプラトン的な観念の理論と組合わさることによって、われわれの魂あるいはモナドのうちに、あらかじめ存在するものとして観念を提示する。これは、抽象によって観念が形成されるわけではないことを意味し、素朴には抽象の理論と観念の理論は、バッティングする。

ライプニッツのすごいところは、このアリストテレス的抽象とデカルト化されたプラトン的な観念を、予定調和の体系とモナドジーによって、調和させてしまうところにあるだろう。個体という具体的・現実的なものと、数学的概念などの抽象的・観念的なものが、どのような関係にあるのか、ライプニッツは、哲学研究を開始した当初から考えていた。そしてその考えは、晩年においてモナドジーというかたちで結実する。あまりに壮大である。今は、このような見通しをもって、研究をちまちまと進めている。

Disputatioの仏訳・訳注

  • Jeannine Quillet and Leibniz, DISPUTATION MÉTAPHYSIQUE SUR LE PRINCIPE D'INDIVIDUATION DE G. W. LEIBNIZ (1663)(pp. 79-105) JSTOR