labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

『叙説』と『モナドロジー』の関係についてのフィシャンの解釈

Michel Fichant, "Introduction: l'invention métaphysique" in G.W. Leibniz, Discours de métaphysique, Monadologie, Édition Gallimard, 2004.

モナドジー』300年のシンポジウムに向け、何とか間に合うように準備しているのだけど、まだ原稿は終わらず。おそらく発表では触れることがない、余ったところをブログにでもまとめて行けたらと思う。まずは、ある意味定説となっているフィシャンの解釈の中心的部分を紹介したい。

フィシャンによると、『叙説』と『モナドジー』は、同一の体系の異なる変奏ではない。1680年代から1716年までのライプニッツの哲学が、一つの「ライプニッツのシステム」をなしているとする見方は、幻想である。35年近く離れたテキストを同時代のように扱うことはできない。実在の捉え方や基礎概念の意味も異なっている。

『叙説』周辺のテクストでは、(カエサルなど)固有名を指示する個体的実体の完足個体概念と実体形相によって物体の実体性が説明されたが、物体の実体性の理解は、『モナドジー』においては、モナドと諸モナドの寄せ集めによる説明に置き換わったとする。実際「モナド」の登場によって、「実体的形相」や「エンテレケイア」は消えないが、「個体的実体」は消える。また、「述語の主語内属説」(praedicatum inest subjecto)も消える(Fichant,p. 114)。

すなわち、モナドは個体的実体の別名ではない。完足個体概念による個体的実体の論理的規定は、モナドと複合体が持つ実在的一性とモナドが持つ単純性による実体の存在論的規定に置き換わっている。「個体的モナド」や「カエサルモナド」という言い方がされないように、モナドは固有名の指示としてはもはや確立されず、個体化の問題は解消されている(cf. Fichant, pp. 135-137)。