labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ガーバーの「モナド論的読み方」批判

Daniel Garber, Leibniz: Body, Substance, Monad. Oxford: Oxford University Press, 2009.

ガーバ―は、初期や中期にすでにモナドの考え方があった、というような、「モナド論的読み方」に懐疑的である。「モナド論的読み方」、というのは、ガーバーの批判を踏まえて私がここで特徴づけているもので、要するに、モナドにはこれまでの過去の出来事すべてとこれからの未来の出来事すべての展開が含まれているように、ある時期の特定のテキストのうちにもすべての内容があると思い込んで、時代の異なる作品についても同じ完成された体系を読み込んでいくという仕方である。そういうことをする意味が無いとする。そのような研究方法は、かえってライプニッツの思想を、後年の思想で押し付けて誤った解釈をしてしまう恐れがある。「完成された体系」というものがそもそも疑わしく、ある時点での作品が晩年の作品という目的へと向かっていたわけではない。

多くの解釈者が他著作を『モナドジー』の萌芽として読みたがるが、異なる時期の著作が『モナドジー』と整合的に読めるのかなど、そのことを示すのはたいそう難しい。

たとえば、初期ライプニッツ思想がモナドジー的に見えるのは、初期の数学研究を通じて、自然学の原理は数学にではなく形而上学に求めなければならないと結論し、ライプニッツがまた初期に持っていた実体形相論や、力学的思想に似た立場に後になって戻っているからだ。ただしそこまで至るのに50年間の試行錯誤があり、似て非なるところが多分にある。

初期から中期にかけて、モナドジー的な思考の断片が確かに散見されるが、それらが成熟期の思想を導いたとしても、ライプニッツ本人は、そのときにはそうした思考の断片が導く先を見ることができなかっただろう。

こうしてガーバーは、『モナドジー』など、後年の思想を初期の思想に読み込むよりも、初期の思想がどこへ向かっていくのか、展開の方向を重視すべきとする。われわれは、ライプニッツが結果的にどこに向かったかを知っているが、当のライプニッツは、書いているこのときには、まだ自分がどこに向かっているのかを知らない。テキストは、それらが派生するところの観点からではなく、それらが導くところの観点から見られるべきである。テキストは、客観的に、非目的論的に読まないといけない。

これは、哲学史研究としてライプニッツを扱う場合の、真っ当な主張だと思う。ライプニッツに限らず、テクスト間の生成的展開すなわちコンテクスト重視の哲学史研究は、一般的方法としても、極めて妥当なものであろう。

ただしこれは、後世に生きるわれわれにとって、なかなか難しい要求でもある。ガーバ―自身もしばしば「新説」の「予定調和説」の先駆を『叙説』の適合説に認めるなど、後の思想を先の思想に押し当てたりして、考えざるをえないところを自ら示してしまっている。

何をもってある著作(『モナドジー』など)の成立と見るのか、その規準にもよるだろう。この規準そのものは、押し当てて研究するほか、ないように私には思われる。