labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

幾何学的対象はタイプなのか

飯田隆「タイプとイデア──幾何学的対象の存在論──」

URL =< http://greek-philosophy.org/ja/files/2018/03/Iida_2018.pdf>

を数日前に読んで、刺激を受けたのでその感想など。

 本稿の基本的な考えは、幾何学的対象はタイプとして存在する、描かれた図形はそのトークンと考えられる、というもの。はじめにプラトン『国家』を引用し、イデアとその似像の関係としてそのことが示唆されている。だが、もちろんプラトン的なイデア論を採用するわけではない。あくまで問題提起と基本的な考え方の枠組みとして参照する。その意味では、プラトンは現代でも生きている。

 読んでいて、ここは大森荘蔵をわざわざ持ち出してくる必要がないことが明らかなような箇所でも、大森荘蔵が出てくるなあ、という印象。しかし飯田は、幾何学に関する知覚の哲学という観点を、大森から得ているのであり、大いなるリスペクトを感じる。

 タイプではなくて、概念でも良いのではという想定批判に対して、飯田は、タイプとトークンの関係が、概念=普遍者とその個別的事例の関係とは異なる、と分析する。自分は概念とタイプの区別について、これまでそれほど意識していなかったので、良い気づきを得られた。同時に、こうした問題を扱う上で、やはり「概念」ということばが人によっていろいろに捉えられすぎなのがネックになってきそうである。

 飯田が問う「タイプの観念はどこから来るのだろうか」などは、まさに今自分が研究している抽象と概念形成の問題とも関係してくる話題である。概念形成の問題とは、概念の起源を問うことだからである。ただ自分の場合、やはり不用意に概念とタイプの混同をおかしてしまっているように思う。むしろ、この誤ちの認識から、抽象的対象の形成と概念形成の差異を検討するという今後の課題を得られた。

 もっとも、飯田の議論には、推測に基づく部分もかなり多く、典拠もほとんど挙げてないので、ここから後付けを探すのが困難である。それほど綿密に検討した論稿ではないと言わざるをえない。ただ、重要な論点を指摘していることに相違なく、脳内は飯田先生絶賛の嵐。ぼくがやろうとしている研究の方向性を見定める上で、一つの導きの糸になるかもしれない。

 疑問というか、もし問題があるとしたらということだが、飯田先生にはタイプ的存在者に関する、ある種の固定した考えがあるように思われるが、本稿においてそれが必ずしも明確に規定されているわけではないこと、および、そのタイプに関する考えが果たして固定した議論の余地のないものなのかどうかということ。

 思うに、飯田には、概念やタイプというものを心的対象の外側に置くことができる、という前提ないし言語哲学の分野での共通了解がある。タイプはどこに存在するのか、またそれはいかにして認識されるのか。述語と結びつけて概念を考えるフレーゲ的前提も見られる。「概念」と「タイプ」という用語についての整理から自分はまずしなければならないと感じた。これだけでも、大きな収穫だ。

 自分の研究の方向性として、数学における概念形成の問題をやっていこうと考えている。その関係上、数学の言語哲学よりも認知心理学神経科学の知見を踏まえた数学の認知哲学に関心があるが、そのつながりを考えさせてくれもする。しばらく哲学史方面の研究ばかりで、言語哲学や数学の哲学そのものの勉強から離れていたので、とても良い刺激になりました。