永井博『数理の存在論的基礎』の序を読む
永井は本書の序で、今日の哲学の現状を率直に分析し、哲学の課題を投げかけている。すでに半世紀以上前の本であるが、現代の哲学の状況や問題意識にも通ずるところがあるように思われたので、内容を紹介してみたい。
今日における哲学の概念の多義性は、哲学の概念を単なる名目に堕している。哲学を否定する哲学もまた哲学的であり、すべての主張が哲学ならば、もはやいかなる哲学も存在しないというに等しい。過去に哲学者は存在したが、現在の哲学者はいかなる意味で哲学者でありうるのか。このように、現代の哲学は、性格を奪われており、「無性格」を性格とする。
永井は、哲学と科学の乖離を問題として、旧著『近代科学哲学の形成』で、その交流の可能性を歴史的に探究した。本書はその問題の一環として、数学という自律的な科学と哲学の関係に関する存在論的探究を試みたものである。
永井は、哲学と科学の関係について、哲学が科学を無視して、哲学固有の問題にひきこもることは可能だという。それも哲学に違いないが、消極的な態度である。他方で、科学を自称する哲学もある。それは、科学に哲学を即応させようとする限りでは、積極的な意義をもちうる。しかし、科学に従属し、科学を無条件に肯定するのは、悪しき科学主義として問題である。
哲学とは何か。永井はこの問いを、哲学自身に固有の問題として提起しない。「現代における哲学の理念の追究は、現代に固有の学問的状況から出発しなければならない」からである。(4頁)。
伝統的哲学の遺産は継承されなければならないが、ただ既成の哲学を流用するのでは効果がなく、権威主義に堕する。また、哲学の流行に振り回されて、哲学の本来の真実性を見失うのも、同じく堕落である。現代哲学でも、単に受動的に学習するのでは、歴史的哲学を学ぶのと大差ない。現代哲学においては、「現代が直面している基本問題を打開するためにみずから徹底的に思索し、ひとりひとりが真に哲学的な思惟の主体となることでなければならない」(5頁)。
永井は本書で、数学と哲学とが触れ合う境界を摘出し、数学的存在の存在論的系譜を探究することを主題とする。現代の数学や、数学の哲学からみると、集合論や直観主義、形式主義、超数学という、今となってはだいぶ古くさい、基礎的な枠組みのもとで書かれている、という印象がある。KleeneのIntroduction to Metamathematicsがちょうど1960年頃に出版され、数学基礎論ないし数理論理学の基本書として定着した時期であり、その意味では当時の数学基礎論を踏まえた枠組みであろう。しかし、一般的となって久しい分類のもとでの哲学的な問題意識を再確認することには、今でも一定の意義があることであろう。
本書が行うのは、数学的存在に関する存在論的考察である。数学的存在の本質に関する問題は、数学的思惟の本性が何であるかという問題と不可分である。この意味で、数学的存在の問題は、存在の原型と思惟の原型とが根源的に結合するところであるが、その結合の基本構造を解明しようとするところに、本書の究極の課題がある。
「すなわち「数理の存在論的基礎」の考察は、究極的には、存在の原型と思惟の原型との統一体から数学的存在と数学的思惟との相関関係をいかなるものとして説明するか、また逆に後者を手引きとして前者をいかなるものとして把握するかにあるといってよいであろう。このようにして本書はまた、数学基礎論から区別された意味での「数理哲学への新しい試論」でもある。」(7頁)
数学が、あるいは数学の哲学が、永井が試みるような存在論的考察を必要とするのか、というのは考察すべき課題である。数学そのものの自律性の観点からしたら、数学の存在論的基礎を考察することは、およそ無用のものである。また、数学の実践において立ち現れてくる哲学的な問題意識について、これまでの哲学ではあまり触れられてこなかったのであり、数学の哲学の伝統的な主題や基礎的概念ばかりでなく、そうした数学的実践にも、哲学は目を向けるべきことが指摘されうる。しかし、数学を思考する存在者としては、またそれに注目する哲学としては、実在の世界と思惟の世界との相関について、どこかで考えないわけにはいかないだろう。
むろん永井は、哲学がこうした存在論的問題を考察せずとも成立する可能性を認めている。むしろ、実在の世界との関係など、およそ決定的解明を期待しえないものであり、論争の泥沼におぼれてしまうのがオチである。無益な論争に徒労するより、経験的・実証的探究に努めたほうが、賢明であるという考えもあろう。そうした態度には、形而上学は学ぶべき点があろう。
しかし著者は、そうした点を自覚しつつも、存在論を唱えることの意義を主張する。なぜなら、「科学の、今の場合数学の成立根拠を真に存在論的な思索をもって追跡してゆけば、事態の必然として「超越」の問題に衝当らざるをえず、そこに否応なしに実在の問題が登場してくる」からである(9頁)。このような超越の問題を考えることは、著者にとって一つの哲学のあり方なのであり、「精神的冒険」なのである。