labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

数学の自然。

その『数理科学』12月号に掲載されている藤田博司さんの「実数の連続体仮説」(「連続体仮説ちゃんまじ仮説」)の記事を読みました。2頁と短いのですが、見通しの利いた充実している記事です。連続体仮説は独立命題で、実数論を展開できる、通常の数学の枠外にあるもの。公理として集合論に付加する分には問題無いが、公理に加えると奇妙な関数や集合の存在を導いてしまう。最後に触れているところで、「数学的な対象の性質の自然さ」を救い上げ、「自然な仮説」を探究し、その正当化を追求するという動機も集合論にはあるということなので、そこから何か結果が出ることを期待したいですね。

ゲーデルのモチベーションはまさにそこらへんにあったと思うんですけれど、数学の自然を救おうとして、連続体仮説に代わる原始概念の直観を求めて、ライプニッツ研究にはまってしまったという経緯があります。ゲーデル自身は、数学内部でそのような自然が達成されるとは考えておらず、分析(原始概念の直観に至ること)は哲学の仕事だと思っていたわけです。

「数学の自然」、あるいは、藤田先生の言い方だと、「数学的な対象の性質の自然さ」というのは、哲学的に興味深い問題だと思います。論理的な可能性だけを数学的な「正しさ」の規準にとるなら、一見、直観に反するような定理や性質も、それらは仮説から厳密な推論にしたがって導出された「正しい」ものであるからには、受け容れるべきものとなるはずです。

しかし、そこに何か違和感を読みとる傾向があるならば、元の公理体系が何か人工的にすぎたのか、何か足りない部分があるのかなど、まだ数学が「自然」を表現する理論として不完全なところがあると思っていることになります。

そもそも、数学の「自然」って何なのでしょう。

この「自然」というのは多分に、数学外の制約にしばられている可能性があると思います。たとえば、このあいだの自分の発表に関わることで言えば、手前味噌で恐縮ですが、虚量が数学で扱って良い「自然な」数学的対象として受け容れられるようになったのは複素数の理論が整備され物理学が複素数化する19世紀後半以降のことでしかないわけです。そこには、複素平面による虚量の可視化と幾何学化が、虚量の実在性を与えるのに、大きく貢献したものと思われます。

「数学的対象の性質の自然さ」の規準は幾何学的な作図可能性から、論理的可能性に、あるいは数学的構造に、徐々に移って行ったと思うのですが、やはり単なる論理的可能性や数学的構造を与えるだけではまだ「自然」と考えるにはいたっていないというところでしょう。

つまり、現代においても、数学の「自然」というものには、何か、論理的可能性+α(仮説として何をとるか、など)で考えられている部分があるということです。数学者の「自由」と数学の「自然」のあいだには、まだ論じるべき課題がありそうな気がしています。