連続体の合成の問題をめぐるライプニッツ手稿
Monades non sunt in loco nisi per harmoniam, id est per consensum cum phaenomenis loci, a nullo influxu sed sponte rerum ortum.
モナドは調和を通じてのみ或る場所にある。すなわち、場所の現象との一致を通じてのみ或る場所のうちに存在する。それも、事物の流入によってではなく、自発的なしかたで生じる。
LH IV 1, Bl. 24 r
Lineam non componi ex punctis demonstratur per lineas transversas; eaque ratione ostenditur si secus sentias totum parti aequale fore.
線分は点から合成されないということは、横断線を通じて論証される。そして、この議論は次のことを示している、もしあなたが反対の考えをとるならば、全体が部分に等しいことになるだろう。
Tempus vero videtur necessario componi ex instantibus, quia duo instantia simul existere non possunt; itaque existit tantum instans praesens; futurum extitit, futurum existet.
時間は瞬間から合成されていることが必然的であるように思われる。なぜなら、二つの瞬間は同時に現実存在することができないからである。したがって、現在の瞬間のみが現実存在する。未来の瞬間が突出しているならば、未来は現実存在するであろう。
Sed linea videtur secari posse ut tempus, et cuilibet quod ponitur in linea respondere quod ponitur in tempore. Exempli causa in motu uniformi per rectam quovis momento punctum mobile existit in puncto spatii novo.
Video tamen nondum hinc sequi quod linea componatur ex infinitis punctis, sed tantum quod infinita puncta sunt in linea. Verum ecce difficultatem.
Si tempus componitur ex instantibus, determinata est in tempore instantium multitudo. Ergone et aequalis punctorum in linea multitudo?
しかし線分は時間と同じように分割可能であるように思われるので、何であれ線分のうちに置かれているものには、時間において置かれているものが対応している。たとえば、直線を通じた一様運動においては、動く点がどの瞬間にも空間の新しい点のうちに存在している。
しかし、私はこのことから、線分が無限の点から合成されることではなく、無限の点が線分のうちにあることしか見ない。まさにここに困難がある。
もし時間が瞬間から合成されているならば、時間のうちに瞬間の多が確定したものとしてあることになる。だがそうであるならば、同じように、線のうちに点の多も〔確定したものとして〕あるのだろうか?