labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

物質と運動は単なる現象であること

ライプニッツ「物質と運動は単なる現象であること」[c. 1678-79?] (A VI, 4, 1463)の粗訳。


物質と運動が単なる現象であること、あるいはそれらの内に何か想像(空想)的なものどもを含むことが、それらについて様々な矛盾する仮説が作られうることから、知解される。しかしながら、そうした仮説はどれも完全に現象を満たすが、いずれが好まれるべきかを決定するようないかなる理由も発見されえない。


他方で、実在においては、あらゆる真理は正確に発見され論証されうる。したがって、私は他の所で示したのだが、それがどの基体にあるのかを決定することはできない。また、物質については、それが破壊されたかどうか、言うことはできない。たとえば、その場所が空なのか、完全に流体の物質で満ちているのか、言うことができない。なぜなら、両方のケースの間には何も違いはないからである。


同様に、もし誰かが、物質のある部分が破壊されることを想像するならば、宇宙のすべての部分から、残りの部分がその場所に入ってくる。というのも、宇宙は無際限であるから、その端においては端はあらず、破壊された物体がはく奪されたところの満たされた空間の場所において、何かが空にされることを知解することができない。したがって、すべてのものは以前と同じくあることになるであろう。


もし誰かが、神がその場所を空なものとして保存していると想像するならば、その内にある物体は破壊されているのではなく、諸事物に抵抗するために無限の速さをもって運動しているのである。それら事物は、あらゆる部分からその空な場所に入ろうと努力しているが、しかし、別の仕方でそれらに作用するあるいはそれらに反発することなしにそうしているのであって、神はその効果を破壊したのである。

現在の課題と直接関わるわけではなく、この断片に深く携わる時間はないので、とりあえず粗訳のみで済ませます。
後半は何を言ってらっしゃるのか、とりわけ良く分かりません。
訳が間違っているのでしょう。