labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

人間科学入門(月曜日・一限)第一回

人間科学講座の教員によるリレー講義初回。月曜一限のためか、例年より人数が少ない。いつも初回はガイダンス。その後、各教員が、自己紹介と自分の担当する授業について手短に紹介する。

自分の番。いきなり声が詰まって出ないなど(汗)。カンタンに自己紹介した後、最近哲学がじわじわ人気が出ている、という朝日新聞の記事について触れる*1。「迷える時代の羅針盤」とあるが、実際に哲学を学んだとしても、「哲学が人性の軸になる」などということはまずないだろう。むしろ迷ってばかりである。しかし、宗教的対立が生じ、経済や政治が不安定な時代において、偏見や前提にとらわれず、より確実なものを求めているのではないか、と分析。その意味では、哲学はうってつけかもしれないね、と(控え目)。こういう反知性主義があからさまに観察される時代にこそ、哲学がもつような批判的精神が大事だということ。たぶん。きっと。いつか。

そこで、哲学の重要な営みとして、通説や暗黙の前提、偏見、信念、一般常識を〈疑う〉ということがあることを紹介。そして、この〈疑う〉ことを方法として導入したデカルトに触れる。
自分の担当回では、「人の同一性」について〈疑う〉、ということのイントロダクション。
哲学の重要な営みとして古典を読むことも大事ということで、デカルト以降の人の同一性をめぐる哲学的議論を踏まえて授業をする。

まず、われ思う自我によって存在を確立したデカルト、その説を〈疑う〉。次に、記憶の同一性が人格の同一性だとしたロック、それに反対して、記憶を担う実体の同一性がなければならないとしたライプニッツの説を比較する。そして、そもそも自己同一性などというものは、人の想像ないし習慣の産物であり、知覚の束にすぎないとしたヒュームの議論を紹介する。最後に、少し欲を出して、この問題を現代の文脈に位置づけ、人の同一性は「神話」であるとしたパーフィットなどの説を疑い検討していくことで、哲学を実際に体験してもらうことを伝えた。

講義はまだ準備中だし、うまくいくのかは不明。同一性の問題は若い学生にとっては親近性のある問題だろうし、哲学的には伝統もあり、現代でもかなり専門的な議論がなされている興味深いテーマであるので、入門で扱うのに適した良い題材ではないかと個人的には思う。ぼく自身も、学生時代にこのテーマに興味をもち、哲学の道に入っていった。しかし、修士過程や博士課程では、このテーマの前提となるところ、あるいは関連するところを主に研究してきた。学部以来、久しぶりに本来のテーマに帰った感があり、自分でも楽しみ。


そういえば、自主ゼミに参加したいという熱心な学生も現れた。テキストは、ヒュームの『人間本性論』あるいはバークリ『フィロナスとハイラスの三つの対話』あたりが候補だけど、いきなり古典を読むのはハードルが高いとしたら、「『SEP』を読む」とかでもいいもしれない。