labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

HPM 第1回例会。

本日は、「数理哲学史研究会」の第一回例会でした。
担当は不肖このわたくしで、カッツ『数学の歴史』をもとにルネサンス代数学について発表しました。歴史に関しては細かいところはやりだしたらきりがないのですが、レジュメでは、ポイントをしぼり、数学的にも重要な、カルダーノの公式を中心にまとめました。哲学的には、負数や複素数の取り扱いとそれらの存在論的位置づけに関して議論しました。
某山田さんが、とても良くしゃべる方で、先に進めようとするわたしを大いに焦らせたのでした。
でも、ついつい議論が楽しく、結局、予定範囲を話し終えることができませんでしたが、議論において、いいたいことは大体しゃべった気がするので、まあよしとします。
カッツはニコラ・シュケ押しだの、タルターリアに冷たいだの、ステヴィン言いすぎだの、議論は大変盛り上がりました。
個人的には、ボンベッリ押しです。代数のセンスに、すばらしいものを感じるからです。数概念の転換に関しては、ステヴィンが際立っていると思いましたが、カッツはあんまり扱っていませんでした。
「解析」の概念を考える上では、パッポスとともに、ヴィエトはやはりはずせません。
イタリア・ルネサンスの時代、国際貿易が発展し、商業では貨幣経済が普及して、複利計算などの実用的見地から、代数的計算そして記号計算が発展するようになりました。この時代、無理数などはもう自然だと考えられているのですが、負数や虚数は、そうした実用においては実在的対応を持たず、不可能であるとか、虚構であると考えられていました。
哲学的問題にあまりとらわれないけど計算は得意だという計算家には、そうした対象は自然であったかもしれませんが、歴史に残るような数学者は、みなある程度、哲学に関する(ヘタな/優れた)教養があった。そのために、負数や複素数の導入は妨げられたようです。
ですけれど、哲学的考察が数学の自由な研究を阻害したとまで言い切れるかどうかは、デカルトパスカルライプニッツのような両刀使いの天才たちを見ると、ムズカシイ気がします。デカルトに関しては、無限の数学については彼の形而上学が確かに阻害要因にはなりましたが、実際にはデカルトが極限計算にも習熟していたように、数学的考察そのものは、それとは独立に行いうるのです。ライプニッツはもっと自由に、発見法としての微積分計算を展開することができましたが、それは、真理へと漸近することを認める彼の哲学と無関係ではありません。
数学史を紐解くと、新しい数学的対象領域への扉は、徐々に開いていったようで、数学的考察とそれまでの伝統や哲学的考察とのギャップをどうしたらよいかについて、苦心や躊躇の跡が見られます。
なので、負数や複素数存在論的位置づけは、かなりデリケートな問題であり、哲学史もひもときつつ、もっと丁寧に考察していかなければならないと思いました。