labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

ユークリッド『原論』の成立:数学の哲学からの自立についての考察。

今日はやたらと風が強く、一日雨模様なので、おうちで静かに作業。目の調子が悪く、疲労もあってほとんどはかどらなかった。息抜きに、読みたかった本を読んでいく。

斉藤 憲 著、『ユークリッド『原論』とは何か 二千年読みつがれた数学の古典』(岩波書店,2008)を第2章まで読む。非常に読みやすく、数理哲学史をやろうとする自分にとって、重要な指摘に満ちていた。ユークリッド『原論』の伝統は、哲学を考える上でも踏まえるべき点が多々あるように思われた(確信)。そこで、どういう点が重要だと思ったかについて、少しメモを残したい。

『原論』の内容についても多少触れてはいるが、それよりも『原論』の形式や特徴、後世における『原論』の受容と読解・議論を検討しており、「岩波科学ライブラリー」という薄くて手軽なシリーズの本ではあるが、わりと読み応えがあり、名著だと思う。

中でも関心を引いたのが、数学と哲学の関係に関する記述である。

著者は『原論』にプラトン的なダイアログ(対話法)の影響を大きく認める一方で、アリストテレスの影響には否定的である。(むしろ逆で、アリストテレスがすでに成立していた論証数学の影響を受けたのかもしれない)。プロクロスについても、『原論』の哲学的解釈を否定的に紹介しているように思われた。こういう数学的誤解からなされた数学の哲学的解釈がおキライなのかもしれない、と余計な推察をする。

プロクロスは『原論』第一巻についての膨大な注解を残したが、たしかに宇宙論に結びつけた哲学的な解釈が強く、『原論』の数学を必ずしも正しく理解していないところがある。

「数学に対する哲学の影響をあまりに強調すると、・・・プロクロスの正多面体の議論のような、確認も否定もできない主張になってしまいかねません」(17頁)

プロクロスはユークリッドより700年も後の時代の哲学者であり、すでにエレア派が問題にしたような運動による点や直線の定義は問題ではなかったのであり、プロクロスはそもそも運動そのものに問題を感じていないようである。それには、プロクロスが一者からの「流出」という運動概念を原理とする哲学を展開していることも理由としてあるかもしれない。ただ、指摘されるように運動概念を前提していてまったく問題にしなかった可能性もあるが、むしろ彼の哲学的帰結として運動概念を前提とする『原論』が非常に相性が良かったのかもしれず、また別の評価が哲学サイドからはなされうるとは思う。

数理哲学史の方法として、この指摘から学べることは、数学と哲学との関係を探究する際、数学的実践の検討を十分せずして、過度に哲学的影響を読み込みすぎてはいけないということである。また、有力な哲学的思潮が代わった場合の、数学と哲学の影響関係は興味深いテーマとしてある。ただ、プロクロスによる『原論』注釈が数学的誤解を含むものであるにせよ、哲学的魅力に満ちていることは疑いないので、哲学史としては哲学的側面をどのように評価するかということにかかってこよう。

「要請」は論証数学の確立の証拠であるが、ややこしい議論に巻き込まれないための予防線でもあった。エレア派の運動を否認するために「要請」がおかれ、そのエレア派に影響されたピュタゴラス派によって『原論』にみる論証数学のスタイルが確立した、とするザボーの説にも冷静に対処している。『原論』が「数学の議論の枠内で批判に対処していった」(24頁)というところに、数学の哲学および他の議論からの自立をみることができる。

証明の終わりに書かれる q.e.f. および q.e.d. についても、前者が「問題」の終わり、後者が「定理」の終わりにおかれることをきちんと説明している。現代ではまだq.e.d.は使用されているが、q.e.f.はもはや使われることはないように思うが、それには一体どういう背景があるのか少し気になった。

『原論』の論証スタイルをアリストテレスの『自然学』と比較し、「というのは」という後だしの説明スタイルを多用するアリストテレスの影響は、ドミノ倒しのように公理論的な論証の順序をとる『原論』の論証スタイルとは相違があるとして、『原論』や『ギリシア数学一般に対するアリストテレスの影響に懐疑的であるとしている。

たしかに、論証スタイルに関しては、分析をしていくアリストテレスと、総合をしていくユークリッドとのあいだでまったく異なるものがあるが、これらを横に並べて比較をして、論証スタイルが違うから影響関係がないとする理由がよくわからない。定義や公理などにアリストテレス『自然学』の影響は見られないのだろうか。あるいは哲学的議論をまさに遮断するための、反面教師のような影響を見ることはできないのだろうか。そこらへんの考察も期待したいのだが、数学内部で批判に対処する『原論』のスタイルでは分析が難しいということかもしれない。

斉藤は、ユークリッドの哲学的立場を問うこと自体が、的外れな問いだとする。『原論』では、要請による明文化によって、運動は可能かという論争とは無関係に数学的証明が展開される。すなわち、「定義・要請を最初に置くことによって、哲学的立場に影響されずに証明が展開できる」(40頁)。

「これがユークリッドの意図的な戦略だとすれば、哲学的問題には首を突っ込まないというのがユークリッドの立場であったことになり、彼の哲学的立場に関する問いは、問い自体が的外れということになります。彼の最大の功績は、数学とメタ数学を峻別し、哲学と独立な、数学の議論のための領域を確保したことにあるように思われます。」(40頁)

たしかに、数学に対する批判や哲学的解釈をあらかじめブロックすることで、数学の独立した領域を確保した点に、ユークリッド『原論』の成立の意義があろう。その通りだと思う。しかし、定義や要請としてどのようなものをおいたかというのは、かなり当時の哲学の影響を受けてのものであって、哲学的影響を完全に免れているということはしかし言えないのではないか。数学的体系の哲学からの自立はなされたかもしれないが、数学的理論の生成が哲学から独立するまでにはまだ至っていないということである。また『原論』はその後、その定義や要請、幾何学的証明のあり方などによって、後世の哲学者たちの多くにも影響を与えており、近世ではもちろんデカルトスピノザライプニッツなどの大哲学者たちに多大な影響を与えている。

おそらく数理哲学史として作業すべきことは、数学の内部での論証や議論がおよそ哲学とは切り離され独立したものであることを留意しつつ、数学と哲学の独立/依存関係をテキスト読解によって歴史的に解明していくことであろう。