labyrinthus imaginationis

想像力ノ迷宮ヘヨウコソ…。池田真治のブログです。日々の研究のよどみ、そこに浮かぶ泡沫を垂れ流し。

連続体の哲学史に向けて

1月から業務が再開され、せわしない日々を送る中で、連休中は自宅にただ引き蘢って黙々と仕事や研究を進めた。自分の限界をみつめるなかで、自分が本当にやりたいことをみつめなおす機会を得たように思う。

自分の研究は、「連続体の哲学およびその歴史」が、中心テーマである。ライプニッツをはじめとする近世哲学研究が中心であるが、古代はアリストテレスから遡り、現代では、パースやホワイトヘッドなどにも関心を寄せている。ゆくゆくは数学的技術も踏まえて、ブラウワーやヘルマン・ワイルなども扱っていければと考えている。また、テーマの関係から、空間知覚の哲学にも関心がある。

しかし、専門分化した現代で、諸科学におけるテクニカルな展開には、ほとんどついていける自信がないし、仕事で集中的に研究できる時間がとれないなかで、あまりに手を広げるのは無謀だと感じている。個人で厳密性を保ってなんとかやれそうなラインを自分なりに設定すると、中期的な目標としては、少なくとも20世紀前半までの位相論や測度論、集合論など、連続体や空間をめぐる数学について、より理解を深めていきたいと考えている。

現在はおもに、授業でも加地先生の『穴と境界』を取り上げている関係で、ブレンターノの連続体論に関心を持っている。『穴と境界』は、何度目かの再読であるが、いわゆる「日常的存在論の立場」に立って、哲学的議論の側面に関しては、非常に良くまとめてあるという思いを一層強くした。実際に関連文献をこれまでいろいろ読んできて、それらがきっちり踏まえられ、わかりやすく位置づけられている。当初は位相論や集合論・測度論などの数学的議論や、連続体に関わる物理学的議論などをもっと踏まえる課題ではなかろうかと思っていたが、これはないものねだりだったであろう。

哲学史を主に研究しているが、しばしば気づくことは、現代でも同じ議論が再発することである。バリー・スミスが再構成したブレンターノの境界論も、ライプニッツがやっていたことの焼き直しではと思うところも多い。クレインやメイトソンが提示した衝突の不可能性の論証も、すでにライプニッツに似たような考察があったように思うし、証明そのものは幼稚なものである。境界をめぐるいくつかの立場も、すでに中世に現れているようである。そうした議論の多くが、実にアリストテレスに見いだされる。しかし、古典にはない、新しい考えが含まれているのを見いだすと、好奇心を駆り立てられる。哲学史を通じて、はじめて思想の独自性に気づくことができるからだ。こうしたリバイバルに出くわすと、哲学をするためにも、哲学史の研究は不可避であり、有意義なことであると思わざるをえない。哲学史研究が現代を無視しては成立しえないように、現代をやっているものは、そのテーマについてそのつど哲学史を参照できるようでなくてはならないだろう。これらは分業的になされていくべきであるが、同時に、個人が一つのテーマについて広い見識をもって初めて、何らかの哲学となりうるという事態が変わることは当分ないだろう。

哲学では同じテーマが繰り返し扱われる。ただ、そこに各哲学者の色がありうる。いつか連続体の哲学の歴史を、「アリストテレス変奏曲」としての「連続体の迷宮」として描いてみたい。